紫雲のたなびく
本宮近辺に宿を求め、その日の旅程はそこで終了となった。将臣は別当からの返事待ちということでしばらくの滞在を覚悟しているようだったが、その別当の正体を知っているとしては、返答が与えられるまでの時間がそれなりにかかるだろうことも簡単に予想できる。
今度こそ正しく還内府に仕える将として、滞在に不備がないよう生活に必要な細かな物資をそろえるために市へと足を運ぶなどしていれば、時間などあっという間に過ぎていくもの。川の氾濫が収まるのを待ちわびたように押し寄せる参詣客に紛れながら、は束の間の平穏にしてゆるりとすぎる日常を堪能することにする。
やがて源氏勢の面々も本宮にやってきたらしいが、幸いにして宿に詰めて書簡の類と必死に睨みあいを続ける将臣が彼らに遭遇することはなかった。本宮に入ったはいいものの、すぐに引き払ってくれたのは単なる幸運だったのか、あるいは別当に将臣の正体がばれていたからなのか。
いずれにせよ、別当との面会に臨むのは将臣のみである。必要がなくなったからと早々にヒトの姿に戻っていた知盛と共に、最低限に身の回りの世話を焼く以外は基本的にのんびりと宿で時間を送っていたは、しかし、いざ面会を終えて帰ってきた還内府にこの上ない渋面を向けられることとなった。
「お前、別当の正体を知ってたろ?」
「正体、とは……また、人聞きの悪い」
ずしりと重い低音の声にも全く堪えた風などなく、くつくつと喉を鳴らす知盛はいたく楽しげに濃紫の舞扇を揺らして涼をとっている。
「なんで黙ってたんだよ?」
もっとも、聞いていないようで人の話を聞いているのも、のらりくらりと言葉遊びをしながら対峙しているのもいつものこと。反応の鈍さになどめげずに将臣は己が言い分をはきと貫く。そして、対する知盛もまたいつになく強い眼差しでそれを受け止める。
つと細められた双眸が弾くのは硬質な光。鋭く、容赦のない光。
「言っても良かったのか? 神子殿の前で」
別に隠す必要もなかろうに、低められた声で暗にほのめかされたのはこれまでは源氏勢の只中であったことを詰る言葉。さすがに将臣とて何も思うところがなかったわけではないのだろうが、呻くようにして「まだ決まったわけじゃねぇだろ」と言い返している。
「本当にそう思うのか?」
だが、それがいかにも苦しい言い訳にすぎないことは明白。
「なれば、なぜ敦盛があそこにいた?」
畳みかけられるのは、情状酌量の余地などない冷厳な追及。
「なぜお前と面識のあることを隠す? なぜ戻らぬ?」
「……」
「なぜ、お前は“弁慶”やら“景時”やらといった名に、過敏に反応していた?」
容赦なく事実と現実を突き付け、知盛はゆらりと嘯く。
「幼馴染殿の許に、戻りたくば戻れ」
扇を仰ぐ手は止まり、目元のみを覗かせて知盛はその表情を隠す。
「それが、元の世界とやらに戻るための術なのだろう?」
いつのまにか傾いていた夕日が差し込み、室内は朱色に染め上げられる。誰よりも紅を纏う平家の還内府に、けれど朱色はあまり似つかわしくない。こんな、終わりへ向かう、郷愁を掻き立てられる色は彼には似合わない。
「熊野は隠り野。……“還内府”が黄泉に還ったとて、何の不思議もあるまいよ」
それは慈悲。それは慈愛。それは懺悔で、それは償い。
自分達は何があっても何も語らないと、言葉にせず示す空気に、将臣はしかし言い返す。
「――今さら退けるか」
凛と、傲然と。それはなんと悲壮な覚悟であり、それはなんと深い情愛であることか。
「“還内府”を舐めるなよ」
似合わないはずの朱色さえ従えて見返す瞳の強さに、はふと泣きたくなる衝動に駆られる。
彼の覚悟を侮るつもりはないし、彼の情を疑うつもりもない。だが、彼は自分と違ってかけがえのない相手と引き剥がされてここにいる。戻ろうと思えば戻れるし、それは誰が責められることでもないのに、ここに居続けると言っている。その覚悟に至るまでの葛藤を、その苦悶を支える存在を、は知らない。たった一人で乗り切るにはあまりにも重すぎるだろうすべてを独力で凌駕したというのなら、彼はなんと強い人なのか。
「院から三種の神器の返還を交換条件に、和議の仲立ちをしようかって話があった」
きつと見据える瞳に輝くのは未来を見据える光。過去を踏みにじるでなく、乗り越えて前に進む強さ。
「権門として返り咲くってのとはかけ離れてるけどな。この話、乗るぞ」
「……それは、“還内府・平重盛”の決定か?」
「ああ」
憐れむように、宥めるように。問う知盛の声に返されたのは、間断おかぬ即答。
「なれば、我らはただ、総領の下知に従うのみ」
いっそ仰々しいほどの所作にて頭を下げ、知盛はひそりと笑声を吐息に溶かす。馬鹿な奴、と。脳裏に響いたかなしげな声はきっと、気のせいではなかったとは知っている。
Fin.