朔夜のうさぎは夢を見る

かなしき楽園

 それでも、知盛の日常はやはり変わらない。相変わらず知らぬ内に仕事を片付け、だるいと言っては睡眠を貪り、酒を飲んでいる。
「あんまり寝すぎると、目玉が溶けるぞ」
「……これは、異なことをおっしゃる」
 用向きがあって知盛の邸を訪れた将臣が目にしたのは、曹司のある邸の北側の濡れ縁に座り込み、だらりと四肢を投げ出して静かに瞼を伏せている姿だった。どうせ気配で気づいているものとそう言葉を投げかければ、持ち上げられた瞼の向こうから気だるげな視線が小さく笑う。
「体調悪いんなら、酷くなる前にちゃんと休め。そうじゃないなら、もちっとシャキッとしてろ」
 言っても聞かないと知ってはいたが、一応釘を刺すことは忘れない。人払いのかけられた一角ではあるし、邸に仕える家人達はもはや見慣れたものとして誰もなんとも思っていないようだが、やはりあまり外聞のいいものではない。何より、見ている将臣の側までなんだか疲れてくる。八つ当たりと知ってはいたが、忙しい時ほどこの知盛の姿は目の毒になる。
 顔を動かすのさえ面倒だといわんばかりの様相で視線を持ち上げ、座れと無言で促されて将臣は遠慮なく腰を下ろす。
「何用だ?」
「熊野別当との交渉内容の確認。お前のオッケー貰ったら、これで時忠殿とかに回すから」
 ばさりと手にしていた書簡を揺らせば、気だるげな空気を縫ってにゅっと伸ばされた白い手がそれを無造作に攫っていく。


 どうやらこの場で話を片付ける気になったらしい。黙って内容に目を通す横でそよそよと吹き抜ける風にそっと目を細め、近くに置いてあった椀から無断で清水を貰い受ける。
「いざ交渉となれば、どう転ぶかはわからぬが」
 椀を干されたことには頓着せず、静かな声がそう嘯きながら紙の束をつき返してくる。
「とりあえず、それで良かろうな。……叔父上方の説得は、お任せするぜ?」
「そんぐらいはやるさ」
 肩を竦めて全権移譲という名の丸投げを請け負い、将臣は再び瞼を下ろしてしまった知盛をじっと見やる。
「なあ、お前マジで大丈夫か? もしキツイなら、熊野は俺ひとりで行ってくるぞ?」
「経正殿が、お許しになるものか」
「だからって、お前に無理させるわけにもいかねぇだろ」
 言葉を投げかければ返事を与えられるが、この覇気のなさは尋常ではない。常の気だるい空気と明らかに違う。これは、本当に相当疲れているのではなかろうか。そこまで思い至って熊野への同行者を選び直すかと思考の隅で人物リストを呼び起こす将臣に、しばらくの沈黙を置いてから、知盛はぽつりと言葉を継ぎ足す。
「眠りが、遠いだけだ」


 唐突な、抽象的な言葉はひどく意味がとり辛い。元々、独特の言い回しが真意のわかりにくい会話を演出する知盛は、言葉の向こうに潜むものが多すぎるのだ。あらゆるものを削ぎ落とし、勝手に自己完結してから最低限の言葉を放ってくるから、対峙する側としてはその裏やら脈絡やらを読み取ることに苦労させられる。きちんと意識して言葉を多用することもできるし、言葉遊びの類も好きなくせに、知盛の本音を示すのはいつだってこういう、短い単語の羅列なのだ。
 何を言いたいのか、何を意味しているのか。それ以上の会話を面倒に感じて切り上げられない内に反応を示さねばと慌てて思考を切り替える将臣のことなど、気にするつもりもないのだろう。薄く瞼を持ち上げ、ぼんやりと視線を投げ出しながら知盛は続ける。
「眠れども、眠れども……辿り着けぬ」
「……どこに?」
「さて、な」
 ようやく問い返せば、声が小さく笑いに揺れた。目尻と唇がいびつに歪み、そして表情が削ぎ落とされる。
「淡く、浅く……。味気ないまどろみばかり、だ」
 重苦しく絞り出された声が、唇から転がり落ちる。落ちた言葉を追いかけるように地面に向けられていた視線が、瞼の向こうに隠される。
「……眠らせろよ。そのぐらい、構わんだろう?」
 言葉尻は、深く吐き出される呼気に紛れて掠れていた。もはや語る言葉はないとばかりに肩から力を抜き去り、完全に睡眠体勢に入った知盛は、ゆっくりと胸を上下させている。


 その寝姿は、往時のものと何も変わらなかった。将臣が知る限り、知盛はこうしてひどく静かに眠る生き物なのだ。
 緩やかに呼吸を繰り返し、知盛はひたすらに眠り続ける。まるで、夢の続きを探すかのように。眠りの果てにこそ、求めるものがあるとでも言うかのように。
 浅く浅く、触れれば弾け、寄れば崩れる脆いまどろみ。
 春の花嵐に、夏の蝉時雨に。秋の夕暮れに、冬の昼下がりに。まどろんでいた獣が、今もこうしてひたすらに眠り続けている。
 何も変わらなかった。まどろむ姿はどこかあどけなく、無防備で、静謐。
 将臣は知っている。そここそは楽園だったのだ。
 苦しく辛い道のりの中で、殺伐とした衰退の中で、平和な日常の尊さを湛えていた、目に映る幸いのカタチ。
 欠けたものを補わず、何も違えず、獣がまどろむ平穏。獣が守る安寧。獣が貫く退屈。そして今は、月明かりの滲む夜闇の損なわれた、永の暁闇。
 日常を奪われた悲哀のカタチが、変わらぬ楽園の中で静かに息をしている。


 その静けさにこそ鼓膜が切り裂かれるようで、将臣は思わず顔を顰める。乱すことなど許されない、溶け込むには禍々しすぎるしじま。息を詰め、双眸を眇め、そしてようやく悟って、将臣は黙って腕を伸ばした。
 作法も知らないし、やり方も知らない。だから、それはひどく粗雑で乱雑な所作だったが、愛情だけは溢れんばかりに詰め込んでおいた。柱に預けられた襟首を無造作に掴み、膝の上へと年上の弟の頭を落とし込む。
 どうせ気配ですべてを察していたのだろう。驚いた様子は微塵もなく、気にした様子も微塵もない。なされるがままに体を預ける獣の柔らかな銀糸を、剣を握り続けるためにすっかり無骨になってしまった指で、そっと梳いてみる。
「――さみしいな」
 知らず落としていた呟きに、獣は薄っすらと眠たげな視線を持ち上げ、そして何も言わないまま寝返りを打つ。うかがえなくなってしまった表情を探るような無粋は働かず、将臣は触れることを許された今だけは、黙って髪を梳き続けることに決めた。



楽園


(残されたのは、悪夢にさえ手の届かない、淡く浅く、儚いまどろみだけ)
(主が欠けてもなお損なわれぬそこは、すべてが美しく調えられた、この世の浄土のままなのに)

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。