かなしき楽園
人の上に立つ、というのは、当然ながら非常に面倒くさいことだ。仕事は多いし、責任は重いし、無条件に「できて当然」という重圧が圧し掛かってくる。とにかく、立つその位置が高くなればなるほど求められるものは重く深くなっていき、そこに疑問のはさまれる余地がなくなっていく。どんどん、ヒトから乖離していくのだ。
望んだことでもあったし、受け入れたことでもあった。だから、将臣は"還内府"という在り方を不満に思うことはない。
辛いと思うこともあるし、鬱陶しいと思うこともある。投げ出したいと、そう思うことだって少なくない。けれど、押し付けられたのではなく自分から飛び込んだのだから、そんな無責任なことはできないとも思っている。ただ、これまでになかった役回りである分、わからないことも当然ながら多くて、日々が手探りだらけだというだけなのであって。
その点、自分は実に恵まれていると将臣は思う。見渡す必要などない。ふと目を上げればそこここに、手本とすべき相手も教えを乞える相手もいる。一門において将臣と比較的年齢の近い面々は、皆平家の栄華が最盛期の折に宮中を渡って歩いていた、いわばエリート中のエリートだ。
清盛に気に入られて拾われたということもあり、接する相手は嫡流である知盛、重衡兄弟を筆頭に、一門の中でも上層部の人間が多い。畢竟、生まれた時から人の上に立つべく育てられ、そうあるべしと生きてきた者ばかりなのだ。
上に立つものでありながら、しかし彼らは下に侍るものでもあった。だから、還内府という幻想を戴き、そう振舞うことに微塵の隙もない。どんなにプライドが高くとも、地位や肩書きを前にすれば、少なくとも表面上は実に従順な素振りで膝を折る。
膝を折り、侍る者としての姿を示しながら、人目のないところでは上に立つ者として存分に力を発揮する。還内府という幻想を確からしくするためにそうして協力してくれる面々は少なくない。だが、それは下の者に知られてはならないことであり、事実、知っている者は限られている。その限られた面々が口を揃え、けれど決して声に出さない共通認識がある。それが、他ならぬ将臣にとって一番身近な手本であり、還内府の一番の副官として見なされている知盛の働き振りである。
仰ぎ見る者が多ければ多いほど、弱気な素振りを見せてはならない。そう教えてくれたのは、いつだって鉄壁の微笑を崩さない重衡だった。言葉でわかりやすく導くことが皆無の兄に対して、この弟は実に丁寧かつわかりやすく言葉を扱う。そつないフォローといい、アドバイスといい、現代にいたならば教職が似合うかも知れないとも思う。
教えてくれたのだから当然、重衡はその態度を徹底している。鉄壁の笑顔はいつでもやわらかな雰囲気を湛えている印象を周囲に与えるが、反面、気弱な様子など微塵もみせず、何事もたおやかに受け止めていると思わせる。強気であれと、そういうわけではない。ただ、弱気になり、気弱になったと思われてはいけない。それが許されるのは、志を同じくする、立場を同じくするものの前でのみ。上に立つという在り方を脱ぎ去って在れる相手の前でのみ。
言ってほんのわずかに眉尻を下げたから、将臣はうっかり問い返したのだ。お前にそういう場所はあるのかと。すると、今度の重衡は実に嬉しげに笑い返した。
「ええ、ありますよ」
嬉しげに、誇らしげに。その声があまりにも喜びをあからさまに滲ませるものだから、将臣もつられて嬉しくなったのを覚えている。
「私は、兄上の弟ですからね」
つまり、知盛の前でなら重衡は素顔を曝して息を抜けるということなのだろう。一見とっつきにくく冷たい印象を与える知盛は、実は家族や身内にとことん甘い。わかりにくくはあるが。それをそうと察せるほどには同じく知盛に甘やかされている自覚のある将臣にとって、それはひどく納得のいく答であり、ひどく安心のできる答であった。だから、その時はそれで問答を終えたのだ。
確か、室山の戦いのすぐ前の頃だった。その教えを胸に初めて総大将として陣頭に立ったのだから、その記憶に間違いはないと思う。
還内府は平家の総大将だが、同じぐらいの重みを持つのが知盛であり、それに準じるのが重衡だ。還内府を幻想と知っている一門の中枢の面々にとって、あくまで総領たるのは一門の嫡流である知盛なのだ。その知盛が一郎党としての態度を貫くからそう振舞っているだけで、事実、少しでも複雑な案件だったり、いわゆる汚れ仕事の類の報告はすべて将臣を素通りして知盛に直接届けられている。
戦況や今後の趨勢の判断に必要だと見なされれば共有してもらえるが、それ以外は知盛が黙って処理していることも知っている。他ならぬ当人に、どうせ手に余ろうからと早々に宣言されているためであり、それが事実であると、僻みもやっかみも卑屈な思いもなく純粋にそう判断したためでもある。
将臣は、別に権力だのが欲しくて還内府の名を欲したのではない。ただ、自分でも不審に思われるだろうと簡単に予測できる、一門の者を一人でも多く生き延びさせるために必要だと判ずる突飛な行動を実行に移すために、絶対的な影響力を持つ肩書きが必要だった。だから、それさえ為せるなら、残る部分に余計な手出しをするつもりはない。
熊野に交渉に行こうと、そう方針を決定したのは将臣だった。それを承諾したのは知盛で、そして二人を中心に、今や平家の双頭とも双璧とも言えるだろう存在が本拠を空けられるよう、事前準備のために一門の者は皆バタバタと奔走している。
いかにも忙しく、わかりやすく奔走するのは将臣。そして、一体いつどこでどうやって仕事を片付けているのかと疑問に思いたくなるほど、わかりやすくちょくちょく昼寝をしている姿を見かけるのが知盛だ。
蒲柳の質を抱えていればこそ、休息をこまめにとることに否やはない。仕事は滞っていないし、本分たる仕事以外にもなにやら色々と動き回っている様子があるのだから、労働量を単純に比較するなら、知盛のそれは将臣の数倍に上るだろう。だが、見かけとか外聞とか、そういうものこそが印象を左右する。つまり、将臣にとって知盛は、とにかくそこかしこでだらだらしているという印象が拭いきれないのだ。
なぜ今の平家を担う二人が熊野までわざわざ足を運ばねばならないのか。それは一門の平穏な未来を願うからであったが、それを今と決断させたのは先の戦で行方の知れなくなった二つの存在ゆえに。
三草山の一件からこちら、痛ましさを押し殺している姿こそが痛々しい経正は、半月を経る頃にようやく心の整理をつけたようだった。だが、対照的に知盛は何も変わらない。相変わらず知らぬ内に仕事を片付け、だるいと言っては睡眠を貪り、酒を飲んで日々を送っている。
平素と何も変わらない、何の違和感もないありふれた日常。だが、その日常に違和感を覚えないことにこそ違和感を覚え、小さな齟齬が積もり積もってどうにもならなくなって。ついに将臣は、重衡に訴えることにした。
簡単な約束を取り付け、土産代わりに酒を持参して、そのままろくな肴もないまま杯を重ねる。重ねて、酒気に焼かれた熱い吐息に絡めて、蟠っていた疑問を、あるいは不満を吐き出せば、対する知盛によく似た男はひそやかに眉根を寄せる。
「それは、致し方ありますまい」
吐き出されたのは溜め息だったが、それはひたすらの哀切が篭められた溜め息だった。
「兄上なりの、これが意地なのですよ」
「意地? 意地って、何のだよ」
「いつか、申し上げたでしょう? 人の上に立つ以上、弱気は見せてはならないのだと。それを誰よりも忠実に体現していらっしゃると、それだけのことです」
「でも、まるっきり、何も違わねぇんだぞ? これじゃ、まるで胡蝶さんが――」
「将臣殿」
眉間に皺を寄せ、手の内の杯を握り締めて呻くように絞り出した将臣の声を、やわらかな、反駁を許さない凛とした声が遮る。
「兄上が、何も思っていらっしゃらないとでもお思いですか?」
ひやりと、地を這うように凄みを滲ませた厳かな問い。
「……いや」
その声の低さにはたと我に返り、将臣は罰の悪さを隠し切れずに俯いて小さく首を振った。
「そんなこと、思ってねぇよ。でもな、重衡。だったらなおのことだ。何にも感じてないはずねぇのに、前と全然変わらないってみせてるんだぜ? それって、知盛にとってすっげぇ負担になってるんじゃないかって思うわけだ」
「それはそうでしょうね」
あっさり頷き、重衡は杯を揺らして唇を湿す。
ことり、と。夜のしじまにごく小さな音が響き、杯を置いた重衡が代わりに懐から引き抜いた扇をばらりと広げる。
「月は、隠せばそれで、この世から失せるものでしょうか?」
言いながら掲げられた腕が、将臣の視界から器用に天頂の月を覆い隠す。言わんとすることがいまいちわからず、首を傾げながらも素直に「そんなことないな」と応じた将臣に、重衡は首を巡らせる。
「月は、隠されたとしても、再び天に戻ります。同じように、胡蝶殿も、隠されただけならばお戻りになるかもしれません。ゆえ、何事もすべて、往時のままに保ちたいと思われるのでしょう」
すっと、腕が引かれて再び将臣の視界に月が戻ってくる。
「そうでなくとも、兄上は違えられないのですよ。慈しみ、愛しんだことを誇り、大切に思われればこそ」
静かに畳まれた扇を懐に戻し、重衡はそのまま視線を伏せた。
「胡蝶殿と過ごされた日常を。月天将殿と共に守らんと奔走なさった、一門のすべてを」
「それが、意地だって?」
問いかけに穏やかな微笑が夜空を仰ぎ、肯定する声はやわらかに夜闇に溶ける。それを聞きながら逆に視線を伏せて、将臣はなんとなく紡いだ己の相槌が震えているのを聞く。そこに返されたのは、吐息で切なげに苦笑する気配のみだった。