霞のような記憶
ぎりぎりと締め付けられるのは苦しいが、文句を言うことさえ許されないほどの圧倒的な哀絶が滲む背中に、知盛は言葉を呑みこんでしまう。同じく、驚きに息を呑みながらも困ったように視線を行き来させるだけで、もまた言葉を発しあぐねている。
「――良かった」
湿った声が、呟く。
「良かった。ちゃんと、辿り着いたんだな」
意味のとれない言葉だった。辿り着くも何も、ここはすっかり地理を把握した馴染みの地元であり、もはや迷子にもなりようがない。もっとも、それには与えられた言葉を字面通りにとれば、という制約がつく。あいにくと、知盛の脳裏に浮かんでは消えるうたかたのような不可思議な単語達が、青年の言葉が孕む意味の深さを雄弁に語っている。
「……いったい、何を言っているのかは知らないが」
とにかく離せ、と。想定以上に冷ややかな声になったのは、面倒事の予感が根拠のないままじわじわと胸を侵食するからだった。これ以上彼らとかかわっては、本当に面倒なことになる。そして、きっとどう転ぼうともかかわらざるをえないのだろうと、思考回路のどこかが冷静に諦めの算段をつけはじめている。
ひとしきり感情を溢れさせることで、多少は落ち着きを取り戻したらしい。ぐすぐすと鼻を啜りながら身を起こす青年を見ながら、服が汚れていなければいいと場違いなことを思っていたのは、現実逃避をしたいからだ。寄り添う距離を詰めてひたと相手を見据えるの視線の冷たさを視界の隅で認めながら、ため息をひとつ。
「お前達がどこの誰かなど、俺は知らない。おかげで助かったことは確かだが、こうして絡まれるいわれはない」
きっぱり言い置くことでまずは線引きを試みる。耳の奥でうるさいのは、先ほどの白昼夢で告げられた言葉。巻き込まれるぐらいならば、飛び込む方がよほどマシ。だが、何より良いのはそもそも巻き込まれないこと。
目の縁が赤く染まってしまっている青年の紺碧の双眸が失意に染まることを、胸のどこかでひどく痛ましく申し訳ないと感じている。そして、それは己の感情でありながら朧な記憶でもあるのだと、直観している。
「別に、誰に何を言うつもりもないから、こちらのことも忘れてもらえば構わない」
「助けてくれて、ありがとうございました」
言うだけ言ってさっさと立ち去ろうと足を引けば、察したが慌てて頭を下げ、知盛の動きに合わせて重心をずらす。混乱しているのは自分達も相手も似たり寄ったりだろうが、その混乱に囚われて動き損ねれば巻き込まれる。
混乱に乗じてさっさと退場してしまうことが最良だと判断したことは微塵も間違っていないと確信していた。だがあいにく、人の心のしがらみになどかかわりのない存在が、この場には居合わせたのだ。
「待って。穢れを祓っていないよ」
無邪気さがひたすらに純化されたような、それは透明であどけない響きだった。悪気など微塵もなく、思惑など欠片もない。ただ、目の前の事実をそっと指先でなぞる言葉。だが、停滞していた空気を動かすには十分すぎるほどのきっかけ。
振り払うことは可能だったが、言葉につられて足を止めたが振り返るものだから、知盛も足を止めざるをえない。まったくもって不本意ながら、平衡感覚を保つための指標なしに足を進めるには、眩暈が酷過ぎるという自覚がある。
忌々しさを篭めて視線を流した先には、心配そうな表情に足を止めてもらえたことへの安堵を混ぜ込んで微笑む白銀の青年。
「とても辛そうだ。神子に祓ってもらわないと」
「そうですね。その傷を放っておくわけにはいきません」
そのまま言葉を継いだのは、先の弁慶という青年だった。居並ぶ面々の中ではひときわ状況への柔軟性をみせるあたり、冷静なのか図太いのか。
「それに、少々お聞きしたいこともあります。お付き合いいただけるなら、こちらからも知る限りの状況説明をいたしますが」
胡散臭いと、心の底からそう思うのに、手向けられた誘い文句への疑念は微塵も湧かない。交換条件は決して不利なものとは思えないし、むしろ自分に有利でそのことが薄ら寒い。そして、断るには知盛はあまりにも状況を把握するための情報を欲しすぎている己を自覚している。
もっとも、今回の事の発端はが奇妙な夢を見たと告白したことだ。弁慶の言う「お聞きしたいこと」はその夢にも言及する内容であろう。さてどうしたものかと、知盛は己の傍らでじっと相手方を見据えているへと視線を流す。
Fin.