朔夜のうさぎは夢を見る

純化され過ぎた祈りの結末

 の選んだ行き先は、八幡宮ではない。佐助稲荷でもなければ、円覚寺でも、報国寺でも。
「こんなところに、教会があったのか」
「わたしも、知らなかったんだけどね」
 感心したように呟く声にちらと笑い返し、戸惑うことなく柵の向こうへと足を踏み出す。そこは、あの聖夜に将臣と訪れた、夢と現実の折衷点。
「わたしの刀、ここでもらったの」
 言って手をかけた扉のノブは、やはり手袋越しでも凍てつくように冷たい。体重をかけることで軋む音は悲鳴のようで、しんと静まり返った祈りの間にひどく響いた。


 なんとなく、誰もいない予感はあったのだ。おぼろげで、霞のような記憶。まるで、この世界に留めてはならないとでもいうかのように、容赦なく薙ぎ払われる夢の残滓。
 その曖昧な手掛かりをなぞるように、ゆっくりと通路を歩んでは並ぶ椅子の背に指を乗せる。ひやりと冷たいそれは、この空間に長いことぬくもりの与えられなかったことを何よりも雄弁に語っていて。
「……夢を、見るのよ」
 入り口をくぐったところで立ち止まったまま、知盛は動いていない。振り返らずとも距離が測れるのは、彼の纏う凛と冴えた気配を、第六感にも似たどこかでまざまざと感じているから。
「夢を見るの。どうしようもなく、哀しい夢よ」
 あの恐ろしい夢を見なくなった代わりに、を苛むのは心が千々に引き裂かれるような悔悟の夢。


 いつだって、この手は一番大切な存在を殺めてしまう。
 その心を守るために、その魂を滅ぼしてしまう。
 その命を守りたかったのに、その心をずたずたに引き裂いてしまう。
 器が死んでしまっては、ヒトは生きられない。心が死んでしまっても、ヒトは生きられない。なのに、正しくあろうと足掻いてあがいて、辿り着くのは終わりを知らない慟哭ばかり。
「誇らしいのに切ないの。だって、どうしようもなかったわ。あのどうしようもない後悔の海で、“わたし達”は誤るわけにはいかなかった。そうじゃないと、本当に、本当にすべてを喪う終焉しか残されていなかった」
 違うし、見覚えなどあるはずもない。けれど、それはどう考えても“自分”の視点であり思考であり、感慨であった。
 阿鼻叫喚を駆け抜ける。血にまみれ、躯を踏みしだき、冷厳たる殺意に仄かな愉悦さえ載せて。高らかに存在を誇示しながら、戦場に舞う。
 ああ、それなのに届かない。背中で舞っていたはずの美しき軍神が、気づけば世界から喪われている。あの、虚飾など微塵も許されないこの世の地獄でなら、自分は夢想の向こうの真理を見失わずに歩んでいられたのに。


 感慨が入り乱れる。違う、違うと心が叫ぶ。垣間見る夢は、整合性があるようでいて矛盾だらけ。にはわからない。これは、いったい誰の記憶なのだろう。
「あの迷宮の奥には、きっとわたしが夢に見た神が封じられている」
 それはもはや確信だった。そして、ある意味ではがこうして非日常に手出しをする理由の終止符でもあった。正体のわからない不安を払拭したかったのが、そもそものきっかけ。ならば、その不安の正体があの迷宮の奥にあると、わかった時点でもう疑問の大半は解消されている。
 封じ込めたままにしておけば、きっと日常がこれ以上掻き乱されることはないという確信もあった。その一方で、アレを確実に滅してしまわねばならないと焦る心もある。
 早く、早く。急がねばならない。もう時間が残されていない。こんな矛盾を、世界が放っておくわけがない。急がないと、一年の中で最も大きな浄化の力が容赦なく行使されるだろう。この、世界自体に。
 辿り着き、滅することは必然。必要にして、責務でさえある。
「でもね、ただそこに辿り着くだけでは、足りないの」
 ただ、それだけでは足りない。それだけでは、この後悔は終わらない。もう、残された機会はないとわかっているのに。


 手すさびのように椅子の背をなぞっていた指を引き戻し、ぐっと体側で握りしめては振り返る。
「きっと、辿り着くわ。巧妙に隠されている真実の、さらに向こう側に」
 無言を貫き、じっと瞳を差す深紫の視線をまっすぐに見つめ返して、は宣する。異国の神を背に、己が世界の定義でさえあった存在に、乞うて、誓う。
「だから、どうかお願い。わたしを、掴まえて」
 この願いでさえも、いったい“どの”自分が“どの”知盛に願っているのか、定かではないけれど。

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Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。