分岐さえない螺旋の記憶
動けるはずなどなかったのだ。は剣道などやったこともない。高校の授業で男子は選択ができたが、女子の選択肢にはなかった。人並み程度に運動神経があるとは思っているが、いきなり剣を握って、満足に動けるはずはないときちんと覚悟していた。
だというのに、結果はこうだ。確かに体は動いた。途中から動きが変わったというのもわかっている。けれど、体力が見合っていないから、こうして散々に息を切らせる結果になっている。
必死に呼吸を繰り返し、あまり冷たい水では体に悪いからと、リビングに戻ってから譲が用意してくれたのは白湯だった。
「一気には飲まない方がいいですよ。少しずつ含んでください」
無理はするなと笑ってもらったので、礼の言葉は目を合わせての微笑に代えさせてもらう。竹刀を弾き飛ばされた衝撃で痺れていた指先も、徐々に感覚が戻ってきた。
あれは幻だったのだろうか。それとも、いつもの夢の延長線だったのだろうか。
舞う背中が見えた。翻る袖が見えた。きっとああやって動ければ互角に打ち合えるのだろうと思った時、柄を握る手を誰かがそっと上から支えてくれた。
――あまり、身構えすぎるな。
突き放すようでいて実は優しくて、指導というには自主性を重んじてくれる。もっとも、いつだって実戦をもって体に叩き込むのが彼のやり方だったから、その優しげな導き方には違和感を禁じえなかった。
――よく、見ろ……お前には、見えるはずだ。
言いながらそっと体に力をかけられ、わずかに動けばそれだけで相手の剣筋から逃れることが適う。ああ、無駄な動きが多すぎたのだと、頭で理解するよりも早く感覚が納得している。
――思いだせる、だろう?
それは、無論。思い出せないはずがない。いったい何のために、自分は剣技を磨き続けたのか。反射的に導き出された思考は、得意そうで誇りに貫かれていて、潔くて、自信に裏打たれていた。
――そうだ、それでいい。
くすくすと笑い、重ねられていた手による誘導が終わっても、はもう動き方を迷うことなどなかった。見える。わかる。読める。繋がれば繋がるほど動きはなめらかさを増し、もっと、もっとと心が叫ぶのを聞く。
――だが、万一ということもあろうゆえな。
守りをやろう。いつか、“お前”が“俺”にかけた守護の祈りに、俺の思いを添えて。
囁きが消えるのをどこか遠くで認識しながら、は視える動きをなぞることに没頭していた。己の限界を過信し、見誤ったがゆえの終焉は、遠からぬものであったのだけれども。
昨夜の不可思議を共有することで距離が縮んだはずの将臣が、再び遠いところに行ってしまったのを視界の隅で見ていた。惑い、不審に思う視線を投げかけられても、には物証としての心当たりしか思いつかない。
「同じなれど異なり、異なれども同じなる、ってとこかな」
淀んでしまった不穏の滲む空気を、そして軽やかに引き裂くのは紅の瞳。
「アンタの動きはオレ達の知る“知盛”そのものだけど、アンタの手にする刃は“知盛”のそれじゃない。姫君の動きと刃もそうで、おまけに、たったひとつの証が、こうしてここにはふたつある」
くつりと零れた笑声は不敵。湛えられた笑みの深さに、はカップに隠した表情の奥で小さく息を呑む。
「とにもかくにも、あの迷宮の謎を解くことだ」
それこそが、きっとすべての真理に繋がっていると思うよ。気負うことなく放たれたその言葉に各人が何を思ったのかはわからない。けれど、立ち止まって悩むよりは先に進もうという意思を刺激したのは確かだった。
表情を切り替え、迷いに蓋をしてさて、ではこの先どうしようかと話し合う風景をどこか他人事のように見ながら、はヒノエという人物の器の大きさを思う。しかし、それでは評価がまるで足りていなかった。
事態を動かした発言がいったいどれほど鋭い指摘だったのかを彼らが思い知るのは、もう少し後の話だった。
Fin.