触れられない未来の記憶
さて、ではまた彼らから連絡が入るまでは待機が続くのだろうと見込んでいたのに、状況は決して甘くなかった。原因不明の落雷事故は繰り返される、九郎の危惧したとおり、迷宮の外においても時として怨霊が溢れている亜空間とおぼしき場に巻き込まれるという事態が頻発しはじめたのだ。
もっとも、それらの只中に身を置きながらも、戦う術のないにとってはすべてがどこか遠い出来事のように過ぎ去っていくばかり。きっかけとなった夢を紐解くヒントにはかすりもしない非日常に慣れ、感覚が麻痺しはじめた頃に、そして転機は訪れる。
巻き込まれた状況の危険性と理不尽さをが正しく思い知ったそれは、望美達からの連絡ではなく、我が身をもっての遭遇ゆえに。しかも、最悪の形で。
目の前に広がる光景には、覚えがあった。庇われたのだと、守られたのだと。突きつけられた事実に悲嘆を深めるにはいささか逼迫しすぎていただけで、確かにそれは覚えのある光景だった。
零れた血の色は艶やかな緋色。悲鳴など上げない。呻き声を少々。それから、彼は二つの矛盾した言葉をに叩きつける。
「あの小太刀を貸せ! それと、お前は逃げろ!!」
すかさず体勢を整えるのはさすがの反射神経だろうが、相手が悪かった。奇声と共に霧のようなものを吹き付けてくるのを見てとり、要求を実現するよりも早く知盛は足を動かす。
守られたのだ。身をもって、身を呈して、その身を盾にして。
今度は呻き声さえ上げることなく、から自由と視界を奪った体躯がぐったりと地に伏す。歯を喰いしばってぎりぎりと胸元を握りしめている様子から、先の霧には毒のような効果があったのだと知れる。
蘇った恐怖の種類には覚えがあったが、深さには覚えがなかった。同じ轍を踏まないようにと思って踏み込んだのに、その先に踏み込んだことによって同じ轍を踏んだ。底なしの後悔と恐怖が現実を侵食することへの拒絶の意思が、全身を巡るすべての神経を焦がす。
せめて自分にできることをと思って呼びだしていた望美の携帯と繋がったのだろう。地に転がった己の携帯から誰かの声が響いているのはわかったが、拾いに行くことなど適わない。そんな隙をみせれば、もう自分達は目の前のアレの餌食になる。確信は、そして恐怖ではなく憤怒と憎悪にすりかえられる。
己が何をしたのか、にはまるでわからなかった。わかるのは、目の前の存在を許せないと思ったこと。許せない、許さない。これ以上この人を傷つけるのは許さない。それをただ見ていることしかできない自分など許さない。何もせずに終焉を受け入れることなど、許せない。
その終焉に刃を突き立てようと。ただ見ていることだけはないようにと。彼が傷つくことを少しでも軽減できればと。
だって、それを願って“自分”は改めて刃を手にし、アレを受け入れたのではないか。
――では、そうして呑まれることが……お前の望み、か?
虚ろに揺れる視界の中に、既に敵の姿は見えなかった。亜空間を構成している核が消滅し、夢と現実の融合が正しく切り離される刹那。ゆらゆらと揺らぐさまを見るのは、初めてのこと。
――そうして呑まれることを、“俺”が、よしとするとでも?
いいえ、いいえそんなことはありえない。ふと思考が弾き返した言葉に、は誰と会話をしているのだろうと疑問を抱く。
――絶望に染むお前は、美しい。
やわらに、切なく、笑う声が郷愁と憧憬を紡ぎあげる。泣きたくなるほど深い慈愛に、胸がぎりぎりと引き絞られる。
――だが、俺は。絶望など知らぬお前のことも、好ましいと思ったんだがな。
宥める声はやはりどこか切なかったが、神経のすべてを焼き切ってしまいそうだと思っていた灼熱を冷ましてくれるものだった。鎮めてやるから、とりあえず、戻れ。呟きながらゆるりと髪を撫でられる感触があり、身じろぐことさえ恐れて身を縮めている己を、他人事のように感じている。
はたと、今度こそ意識がはっきりした時、が見たのは見覚えのないものばかりだった。布団に寝かされているらしく、頬に当たる感触は視界を埋める真っ白な枕カバーだろう。色褪せたイグサが畳みが敷かれてからの年数を物語り、けれど障子紙は皺ひとつない。淡く橙色に色づいているのは、差し込む光が夕陽だからだろう。
「気づかれましたか?」
紙の繊維の一本一本が複雑に絡まっている様子が浮かび上がるのが美しくて、ぼんやりとそれを見やっていたの背後から、ふと声が降ってくる。
「知盛殿も、ご無事ですよ。少々性質の悪い毒でしたが、浄化も間に合いました。隣の間で、休んでおいでです」
言葉の合間に衣擦れの音が響き、声の主が腰を上げたことが知れる。
「譲くんが、お気づきになられたら蒸しタオルを用意しましょうと、言っていました。お願いしてきますので、少し待っていてくださいね」
そのまま背後に遠ざかっていく気配に、そしてはようやく、己の頬が涙に濡れていることを自覚した。
Fin.