朔夜のうさぎは夢を見る

それはいつか

「俺も大概、このつまらぬ世には飽きあきしていたが」
 前触れは、なかったと思う。いつも通りの、ありきたりな時間だった。
 いや、正確には、最近になってようやくありきたりと感じることができるようになってきた時間のこと、だった。
 なにせここは、将臣にとってありうべからず世界。
 あまりにも有名な、古い古い固有名詞が生き生きと息づいている世界。
 真実などもはや誰にもわからず、偉い偉い先生方が、遠い昔の誰かの日記を勝手に覗き見ては必死になって推測して、かろうじてその姿を夢想している、そんな世界。
「お前のその、見事なほどの絶望は……いったい、どこから生まれている?」
 夢か現か、自分は気がふれてしまったのかと思い悩んだのは少し前までの話。そろそろ耳馴染んできた独特のゆったりした口調が、皮肉さの仮面をかぶったわかりにくい優しさの、複雑怪奇な化学反応の結果であると結論付けられるほどには、ありきたりと感じられるようになった日常だったのに。


「あ? なんだよ、急に」
 脈絡の読めない言葉はいつものこと。皮肉気な声音もいつものこと。振り返った先で、真意の見えない薄笑いが待ち構えているのも、いつものこと。
 珍しく手合わせに付き合ってくれたと思ったのも束の間、将臣のことをこてんぱんに叩きのめしてからどれほど時間が経っただろうか。素振りを千回とだけ言い置き、今にも眠ってしまいそうな様子で階に腰掛けていたくせに、いきなり何を言い出すのか。あまりにも訳がわからず、つい反射的に手を止めてしまった。集中力は見事に真っ二つ。このまま惰性で木刀を振っていても意味はなかろうと諦め、将臣は剣先をだらりと地に向ける。
「死を容認したまま刃を握るのなら、やめておけ」
「だから、なんなんだよ」
 独特の口調も、言葉選びの回りくどさも、何もかもがいつも通り。ありきたりな、この男の常の姿。なのに、言葉がゆるゆると積み重ねられるたび、背筋が粟立つのはなぜなのか。


「絶望は伝播する」
 それはさながら、清水に墨を流し込むように。目に見えるほどになるまでには、あるいは時間がかかるやもしれぬ。だが、確かに在る。どこまでもどこまでも、際限なく広がっていく。
 紡がれる言葉こそがまるで流水。拒むことも堰き止めることもできないまま、将臣は己の頤を拾う白い指の硬い皮膚を知る。いつの間に立ちあがり、いつの間に距離を詰められていたのか。まったくもってわからない。
「お前がお前を殺すのは、お前の自由だ。だが、その絶望を携えて軍場に立つことなど、俺は認めない」
 その声は鋭い刃のようであり、あるいは闇を切り裂く雷光のようだった。何を感じたかもわからない。己の思考回路にさえついていけていない将臣からあっさりと指を外し、男はくるりと背を向ける。
「滅びへの道なら、お前に導かれずとも、間にあっている」
 冷やかに言い捨てられた端的な言葉は、何よりも明確な決別の意思でしかない。





言葉



next

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。