朔夜のうさぎは夢を見る

それはいつか

 気づけばどこかで何かを間違って、手に入るはずだったものが喪われていた。だから望美は繰り返す。何度も、何度も、何度でも繰り返す。胸に提げた神の奇蹟に力を注ぎ、人の身では許されざる奇蹟を行使する。
 些細な点に違いはあるが、望美がこれと定めた道の向こうは、望美の知る通りに時間が過ぎていった。
 九郎の盲信も、弁慶の慚愧も、ヒノエの苦悩も、敦盛の幽愁も、リズヴァーンの決意も。
 何もかもが知る通り。些末事に変化があったところで、何を気にすることがある。だって望美は知っている。運命は分岐点によって定められる。その分岐さえ見誤らなければ、望む未来に辿り着ける。裏を返せば、その分岐以外はすべて、運命に対しては些末な事柄にすぎないのだ。


 だから望美は分岐点をひたすら注視する。見誤ってはいけない、取り違えてもいけない。
 かつて辿った時間と今辿る時間は、同じように見える。そして、確かにほぼ同じように流れていくくせに、分岐の登場する時機や形が微妙に異なる。
 いつかは九郎がふと思い立ったように言いだしたからと九郎に注目していれば、あろうことか知らぬ間に弁慶に下調べをさせていて、弁慶の口から取り戻しようのない状況で聞かされたこともあった。リズヴァーンが独断で動いたのかと思えばヒノエと共謀していることもあったし、他人に迷惑をかけることをあれほどに厭う敦盛が、独断で行動を起こすこともあった。
 だが、どれも後からよくよく思い返せば、ちゃんとそこかしこに符牒があるのだ。それに望美が気づけたか、気づけなかったかという違いだけ。そして、時空を跳躍し、運命を上書けば上書くほど見落としが少なくなるかと思われたそれらの符牒は、繰り返せば繰り返すほど多様さを増し、望美の目をすり抜け、指の届かぬ先で望美を嘲笑うようになったのだ。


 だって、確かに同じだったのだ。一度目と二度目の間に会った一番の違いは、三草山での決断。二度目は鵯越。三度目は熊野での交渉。四度目は春の京。五度目は屋島。それから、それから。
 はじめは覚えきれる程度だった。繰り返せばそれが体に染みついて、思い出す必要などなく、反射的に"正しい道"を選べるようになった。だからそうやって身に染みた部分は後に回して、直前に間違った分岐点を誤らないよう注力した。そうして繰り返すうちに、やがてこの身は反射的に、自動的に、何を思い煩うこともなく"正しい道"を進めるようになるのだと確信した。だというのに、どうして少しずつ、そうして身に染みた部分が端から端から、変じていくのだろう。
 誰よりも親身になって話を聞いてくれた朔と、仲良く語り合えなくなったのはいつの運命からだろう。
 誰よりも望美のためにと傍にいて、気を配ってくれた譲が、まるで恐ろしいものを見るように遠巻きに接してくるようになったのは、いつの運命からだろう。
 九郎が望美の言うことを信じてくれない。弁慶に策の効果を説いても、乗ってくれない。景時を助けたくて手を述べれば逃げられ、ヒノエは醒めた目で見やるばかり。敦盛は何も言ってくれないし、リズヴァーンは哀しげに眼を逸らすし。
 けれどけれど、どうせ上書いてしまうのだ。すべてはなかったことになり、望美が望んだ時点からの再始動。だから失敗はやり直せるはずで、歪んだ関係も修復できるはずだった。なのに、どうして繰り返すほどに、徐々に徐々に、すべてが悪い方へと進んでいくのだろう。


 それでも、望美は諦めるわけにはいかなかった。諦めてはいけなかった。それが意思による決意ではなくなってしまったのだと、気づくことができないほどに、何もかもは手遅れだけれど。
「だって、私は神子だもの」
 もしかしたら、それこそが最初に踏み外した一歩だったのかもしれない言葉を呟いて、望美は逆鱗を握った。呼び止めてくれる数多の声は、随分と前から、彼女の耳には届かなくなっている。







(もう、手遅れだということには気づいているの)
(だからきっと、何も聞こえない)


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Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。