朔夜のうさぎは夢を見る

わたつみの慈悲

 ありとあらゆる疑問は残されたが、つまるところ源平の争乱は終結を迎えた。還内府を討ち損ね、三種の神器と先帝も行方知れず。しかし確かに、九郎義経の一行は平家の象徴的将であった平知盛を討ち取っており、それには多くの証言者がいた。よって、それ以上の問答はもはや意味のないものとして処理された。
 あの日、海に沈んだはずの知盛が現れたことについて、唯一全容が読めていたらしい白龍は、しかし知盛と同じことしか語らなかった。すなわち、彼はこの時空の彼ではなく、非常に清浄な気配の導きによってこの世界で影を結んでいた幻影だったのだと。
 役目を終えたから現代に還ると、そう言ったのは譲で、賛同したのは将臣で、最後まで渋ったのは望美だった。彼女が何に固執し、何ゆえ渋っていたのかもまた、結局よくわからないまま残された謎だった。けれど、最終的には現代への帰還を決め、その前にと揃って赤間関を訪れたのは、彼女の希望もあってのことだった。


 望美は花を摘んでいて、将臣は酒の入った瓶子と杯を二つ携えていた。ヒノエの伝手で地元の水軍に舟を借り受け、なぜだか八葉が全員揃って、平家の猛将の弔いである。
 花は軽い。ろくに水音も立てずに波間に浮かび、そしてゆらゆらと沈んでいく。ぱさり、ぱさりと乾いた音が続いて、それぞれが思い思いに花を水底に送っている。
「幸せって、なんなんだろうな」
 持参していた杯に一杯分の酒を汲み、あとは瓶子ごと海に放り込んで、将臣はぼんやりと呟いた。
「俺さ、アイツだけは絶対に還ってこない気がしてた。だから、アイツが死んじまった時、すっげー泣いたし、アイツが還ってきたのを見て、信じられなかった」
 舟にもう一方の杯は残されていない。瓶子に先んじて、既に海に放り込んであった。ゆらゆらと頼りなく揺れる船の上で慣れたように仁王立ち、空と海の境目を身ながら、口をつけようともしない杯を手に将臣はぽつぽつと続ける。
「胡蝶さんは、何も知らなかったんだ。俺達が知らせなかったから、何も知らなかった。けど、アイツは確かに、胡蝶さんに呼ばれたから還ってきたんだ」
 杯を持つのとは反対の手には、消えた二人の代わりとばかりに残されていた水晶と組紐が握られている。それが、平家がまだ栄華を誇っていた頃に互いに贈りあった物だということを、将臣は重衡から聞いて知っていた。


「二人とも、ずっと哀しそうだった。俺は、よく知らなかったけどさ。ずーっと見てた重衡が言うんだ。同じなのに違うから、それが余計に涙を誘うって」
 けれど、二人が二人でいる時は、確かに幸せそうだった。それは紛れもない事実だった。たとえ怨霊として還してしまい、還ってしまった関係であっても、二人は互いの傍に安息を見出していた。それを将臣は直接見てもいたし、重衡や経正から聞いてもいたし、言仁のはしゃぐ声に察してもいた。
 あれが幸せでないなら、一体何が幸せなのか。
 あれを幸せと呼んではいけないのなら、ではあの二人は不幸だったのだろうか。
「……今度こそ幸せになれよ、って。そういうのって、願っていいものなのか?」
 だって、それではまるで彼らが不幸だったと宣言するようではないか。


 俯き、震える肩に触れる手はなかった。その言葉に、誰もがそれなりに思うところがあったのだろう。潮騒とウミネコの泣く声だけが響く中で、ようやく言葉を紡いだのは、将臣達を異なる世界へと送り届けた後、龍脈に還るのだと微笑んでいた神。
「幸いは、それぞれだよ」
 彼をこそ苦しめただろう存在の一端を赦すように、穏やかな声がうなだれる広い背中に注がれる。
「知盛は、確かに死した魂だったけど、怨霊ともまた違っていた。きっと、違った分の責務を負っていた」
 言いながら彼が無手の指先にかたどったのは、五行を集めた虹色の花。手すさびのようにそんなことができるのも、力が戻った証左なのだろう。満足そうに作品を見やって微笑み、白龍は将臣の隣へと足を進める。
「それでもなおと道を貫き、最後に笑っていた。そして、胡蝶もそれを受け止めていた。だからきっと、あの二人は辛かったけれど、幸福だったのだと思う」
 言葉を引き取るように、不思議な花が波間に落ちる。ぽちゃん、と。どこか気の抜けた音をつれて沈む。
「祈ること、願うことは罪ではないよ。まして、将臣のそれは、やさしい願いだもの。大丈夫、きっと、あの二人にも届くよ」
 そうか、と。幾分やわらいだ声で呟いて、将臣は黙って酒で満たされた杯を投げ込み、暫し迷ってから、水晶と組紐を懐にそっとしまいこんだ。

Fin.

back

back to 空の果てる場所 index
http://crescent.mistymoon.michikusa.jp/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。