わたつみの慈悲
どうすることもできない絶対の束縛は、術者たる邪神の絶叫によって断ち切られた。四肢が自由を取り戻すと同時にそれぞれに武器を構え、もはや微塵の迷いもなく源平の名を超えた敵に対峙する。
「将臣くん、九郎さん!降三世明王呪、いきましょう!!」
「了解ッ!」
「ああ、いくぞ!」
神子の練り上げた木気を、天地の青龍が降三世明王の加護にて術となす。敵の相克属性の術を過たず選び取り放った神子が、さらに五行を汲み上げる。
「廻れ、天の声!」
見るものが見ればその眩さに眩暈を覚えただろう。あるいは目を背けたかもしれない。渦を巻いて五行が天へと駆ける。白龍の神子の言霊に、黒龍の神子が声を重ねる。
「響け、地の声!」
もはやそれは嵐だった。天が、地が、海が震えている。ありうべからず気の奔流に、嘆くように、歓ぶように、怒るように。
「かのものを、封ぜよッ!!」
二人の神子の声が、神に終焉を突きつける。そして、静寂が戻ってきた。
何がなんだったのか、全容が把握しきれない。誰もがただ過ぎ去った嵐の強大さに呆然とする中、大技を放った余波で肩を激しく上下させていた将臣が、ふらりと足を踏み出す。
「胡蝶さん……」
呼びかけ、その腕に抱き上げたのは地に伏した二つの人影のうちの一方。邪神のあぎとに喉笛を食い破られ、既に流れる血の絶えた亡骸。
そのまま声を呑み、言葉を呑み、黙って躯をひしと掻き抱いた背は小刻みに震えていた。殺せども殺せども、漏れる嗚咽は飲み込みきれない。
「どうして、なんだよ」
なぜ、どうして、一体何のために。とめどない問いかけに、答える声は存在しない。応える声は失われて、そして二度と戻ってこないのだから。けれど、代わりに答えるよう、地を踏み鳴らす軽い足音がある。
たんたん、と、足音は床板を無感動に打ち鳴らしながら距離を詰めてくる。振り返る気のない将臣に向かって、迷うことなく真っ直ぐに。
「なぜ、と……問うたところで、失われた命の戻るはずもないことは、お前こそが知っていよう?」
低くゆったりと響く声が、独特の節回しでくつくつと笑う。からかうように、諭すように。その遠まわしな表現はわかりにくいからやめろと、言ったところで聞きもしなかった相手のお蔭で、ついにはその言い回しこそが懐かしく思えるようになったのだ。
揶揄に揶揄を重ね、遠まわしに、それでいて隠すことなく内心を語る不思議な男。穏やかな、とも、退屈そうな、とも称せるだろう彼特有の声音で、足音と入れ替わるように紡がれる言葉が世界の理を告げる。
「別に、自暴自棄になって死を選んだのではない。……いかんとも抗いがたい、しがらみの結実……と、いうものだ」
言いながら腰を折り、呆然と振り仰ぐ将臣の双眸を覗き込むようにして声は続ける。
「認めてやれ」
それこそが、死者にとっては何よりの手向けになる。嘆かれるよりも、惜しまれるよりも、悲しまれるよりも。少なくとも、俺はそう思うがな。言葉尻に笑みを溶かし、ついと細めた深紫の瞳で目笑する。どこまでも、将臣のよく見知った表情で。
誰もが警戒に満ち満ちた表情でじっと、それぞれの得物に手をかけたまま見やる先で、将臣がついに名を紡ぐ。
「と、もも……り?」
「お前の知る“俺”ではないがな」
掠れた声での呼びかけに、影が膝を折りながら肩を竦める。
「まったくもって、厄介なしがらみだ。俺の置いてきたコレのことも、いずこかの俺がこうして迎えに行っているのやもしれんが」
「お前、何やってんだよ! 生きてたんなら、何でもっと早く――」
「都合のいい妄想になんぞ逃げるなよ、有川。……“俺”を看取ったのは、誰だ?」
上ずった声に冷徹に切り返し、影はただ静かに続ける。
「俺は、お前の知る“俺”ではないがな。それでも、辿った最期はお前が看取った“俺”と同じだ……。ゆえにこそ、こうしてここに呼ばれたんだ」
「……呼ばれた? 誰に?」
「これを愛でる、いと高き御方に、な」
そこでようやく表情を緩め、ひどくやさしい仕草で影は将臣の腕の中にある冷たい頬を撫でる。
それは、ありうべからざる存在だった。八葉の多くが見知った鎧姿ではないが、見まごうはずもない。その銀糸の髪も、けだるげでいて背筋の伸びた所作も、声も、瞳も。すべてすべて、日が天の最も高い位置にあった頃、それは彼らが海へと見送った男の姿。
「知盛、あなた、怨霊なの?」
「死の向こうになお、現し世にて姿を結ぶものをすべからく怨霊と呼ぶのなら、俺はまさしく怨霊だろう」
ようやく声を絞り出した神子に、影は肩越しに振り返るだけでちらりと嗤う。
「逸るなよ? 俺は別に、妄執ゆえに迷い出てきたわけではない」
「では、なぜそこにいらっしゃるんです?」
「御身は龍神の加護を受けし八葉なのだろう? だったら、少しは気を読むなり何なり、ご自身で探ればよろしかろうに」
問いを重ねる外套の青年にぴしゃりと言い返し、再び将臣の腕の中へと視線を戻して影は呟く。
「迎えはせめて、見知った顔がよかろうと……神の、らしからぬ慈悲というものだ」
そして、いまだ混乱から抜け出せないらしい将臣の腕から、娘の亡骸を抱き上げて腰を上げた。
それはきっと、時節が違い、場所が違えば本当に微笑ましい光景だったに違いない。影の所作からは娘をそうして扱うことへの慣れが感じられ、そこに確かに介在する慈愛が感じられた。力なく傾ぐ頭が胸につくように何度か揺すり上げ、頬にかかってしまった髪を、唇ではさんでは丁寧に取り除いている。
「どうする、気だ?」
「還す」
掠れた声での問いかけにきっぱりと返し、影はいまだ地面にへたり込んだままの将臣を見下ろした。
「コレの、この世界での役は終わった。ゆえ、還すのさ。すべてを夢物語に、これの生きる世界へと」
それが、俺の願いであり対価であり、神の慈悲。謳うように紡いでひそりと笑い、影は吐息に言葉を絡める。
「時の流れ、世界の別に介入することは、本来ならばありうべからざる罪悪だそうだが、な。……その崩壊と天秤にかければ、目を瞑ることもできるのだそうだ」
「………怨霊とは、違うんだな?」
「違う」
恐れるように、確かめるように。託された問いに滲む不安を切り捨て、ただ穏やかに影は微笑む。
「俺も、コレも、こうなってしまっては生まれし世界には還れない。その代わりに、異なる輪廻を与えられる。それだけの話だ」
声は深く、やさしかった。何かを諦めたような、受け入れたような、不可思議な落ち着きを湛えた音。その向こうで、沈み行く夕日に照らされて、朱色の中に影と娘が溶けていくのを、見る。
「――じゃあ、な」
そっけなくすらある短い別れの言葉を残して、そして影は姿を掻き消した。その足元に、紫水晶の繋がれた紐と、髪結い用だろう組紐を名残りに。
Fin.