翳す刃
西の空が明るいと。それに気づいたのは、知盛だった。
「……落とされたな」
ぽつりと呟く声には、悲嘆も感慨も何も篭められていない。ただ事実をなぞり、言葉へと置き換えるだけの音。同じように西の空を振り仰ぐの胸には、ひたすらの恐怖が押し寄せているというのに。
「大手は東から、だったな……。このまま挟み撃たれれば、ひとたまりもないか」
「退避経路は幾通りにも。海上へ出てしまえば、源氏は我らの敵ではありません」
「そうか? ……らしくもなく、随分と楽観的なことだな」
低い声が小さく笑い、そしてくるりと踵を返す。
「福原には重衡がいる。帝や母上の御身は、命に代えても守ろうよ……。我らは、ここより先に、源氏の連中を進ませぬだけ」
鎧といい具足といい、決して身につけているものは軽くないのに、知盛の足音は小さい。暁闇に沈む森の中で眠るすべての命に憚るように、その挙措には音が伴わない。
通りすがるその瞬間、与えられるのは陣を預かる総大将から副将への命。
「源氏の神子が現れたら、俺に譲れよ」
「わたしでは、役不足とでも?」
「いいや? ただ俺が、どれほどの相手なのかを見極めたいだけさ」
気配が、笑いながら天幕へと戻っていく。それを背中で見送って、はもう一度、不吉なほど真っ赤に耀く西の空を仰ぐ。
傍を離れたくなかった。それだけはどうしても譲れなかった。だって彼は、誰よりも安息から遠い存在。その彼が眠りを預けてくれる自分が、なぜ傍を離れるのか。
泣いて泣いて、迷って、応えられない自分を嫌悪して。けれど、どう頑張ってもそれだけは受け入れられなかった。何があってもそれを譲れない命だと言うのなら、鞍に縛り付けてでも無理矢理に自分を排除して欲しいと訴えた。そうでないなら、どうか、あなたの隣で終焉を見届けさせて欲しいと。
呆れによるものだろう息を吐き出し、そして知盛は呟いた。
――愚かな娘だな。
お前は愚かだ。滅びを『知って』いるくせに、なぜそうしてより苦しい道を選びたがる。我らと共にあれば、お前はその身をもって理の歪みを糾弾し、人の世の無情に曝され、きっと最後には絶望を見る。落日の一門ではなく、これより花開く一族の許へと身を寄せる方が、よほど生きやすかろうに。
言って、哀しそうに笑って、けれど知盛はをそのまま抱いていてくれた。だからきっと、それが答なのだと思った。
都落ちよりこちら、決して生活が楽だったとは言わない。権門の中でも中枢に位置する公達という後ろ盾があったため、過ぎる贅はないものの、それまでそれなり以上に贅沢に暮らしていたのだ。ままならないものが増えるたびに、どれほど自分が彼の腕の中で大切に守られていたのかを思い知った。
身を飾るものなどいらない。甘いものが恋しいなど言わない。畑を耕すのも、山に入って山菜を集めるのも、狩猟をするのも構わない。
なんだってする。なんだってできる。あなたから引き剥がされる恐怖と引き換えに得るものなど、何もない。だからどうか、あなたの定めた最後の瞬間まで、あなたの傍らに。
そう思い定めて、やはり呆れを滲ませた苦笑を浮かべさせながら、はここまできたのだ。
「来るなら来なさい」
西の空を睨み、そして呻く。呪うように、祈るように。
「わたし達は、ただ漫然と終わったりはしない」
思い知れば良い。お前達が新しい時代を生むというのなら、自分達は、お前達に産みの苦しみを教える存在なのだということを。
福原へと東から攻めてきた源氏軍との矢合わせが始まったのは、まだ東の空が薄っすらと白みはじめるか否かの頃だった。逆茂木にかかわずらっている間に少しでも兵力を削いでおけと命じる知盛に応え、兵達は盛んに弓を引く。
「お前は俺から離れるなよ」
「承知しています」
「家長、お前は先に命じたとおり、遊撃だ。適当に六十騎ほど連れて陣を離れろ。攻め込んできた連中を内へ誘い込むゆえ、背後に回って挟み込め。歩兵も半数までなら連れて行って構わん」
「御意」
てきぱきと下される指示に、それぞれが職分をまっとうするために慌しく動きはじめる。徐々に白んでいく視界に、日が昇りはじめただけではない熱気がじわじわと篭もりはじめる。
「見ろよ」
否応なく高められていく神経を意図的に冷却させ、思考回路を怜悧に保つ。理性を失ってはいけない。は名を負う将なのだ。無様な戦いぶりを見せ、それによって名を穢す姿なぞ、衆目に曝せるはずもない。
呼吸を調整することで心拍数を正常域に保とうと努力し続けるの半歩前で、そして常と何も変わった様子を見せない知盛がふと前方へと視線を飛ばしている。
「明ける……紅い陽だ」
逆茂木が取り払われたのだろう。あっという間に喧騒が近くなり、矢が宙を飛び交う音ではなく、金属同士のぶつかり合う音が響く。最奥にあたる本陣近くにまで、迫る敵の気配。
「夜のうちに、血の流された証だろう……。福原をも朱に染めてくれた、その返礼は、しかとせねばな」
涼しげに嘯く言葉が重なるごとに、知盛の気配が明白になっていく。茫洋と、暁闇に溶け、朝日にかき消されそうだった存在が、煩いほどの脈動をはじめる錯覚。
「さて、参ろうか」
鞘走りの音は、三重に。足を踏み出した知盛に遅れず続きながら鞘を払ったにちらと笑みを孕ませた視線を流し、平家の鬼神とも軍神とも恐れられる存在が、ついに戦線に降り立つ。
Fin.