朔夜のうさぎは夢を見る

鞘の朽ちたる

 四方に散ってしまった兵を回収しながら本陣への一時撤退を指示しながら、は必死に奔走する。なにやら濃密な神気が集って以後、あの光は襲ってきていない。だが、それ以上に集う神気が恐ろしかった。禍々しいものと、猛々しいものと。一体どこのどんな神を呼び出したのか。あれは、人の手に負えるようなものではないだろうに。
 ようやく目につく限りの兵を拾い終え、本陣へ帰還する道でが行き合ったのは同じく疲弊しきった様子の景時だった。不安げに大社を見やりながら、ここで残りの兵の帰還を待っているのだという。確かに、街道から本陣を目指す兵は、どこから戻ろうともここを通過する。景時を一人にしておくわけにはいかなかろうと同じく馬の足を止め、もまた遠く大社を振り仰ぐ。
「ナニを降ろしたのでしょう」
「……わからない。けど、とんでもないね」
 知っているのだな、と。それは直観だった。だが、景時は何も言わない。だからも何も問わない。とんでもないモノなのだと、それを教えてもらえただけでも、大分マシだと判断したのだ。


 あの五行の一撃を察した直後からずっと感覚を鎖しているのに、重い空気がじわじわと四肢を縛り付けるようだった。自分を加護する神が清冽な気配を持っているからこそ、余計にこの禍々しさが堪えるのかもしれない。
 邪神の類かとあたりをつけながら、ふと背後に湧いた気配に振り返る。思わず抜刀しながら殺気を篭めて見やった先では、怯えたように木立の向こうへと駆けていく兎の小さな背が見える。
「緊張してるの?」
「これほどの相手ですから」
 過剰な反応に思わず苦笑しながら納刀し、再び馬上で向きを整えるところにあたたかく声がかかる。問う先から緊張を解くようにわざと軽やかに揺らされる口調に、もまた軽口にて混ぜ返す。
 と、ひしめいていた気配が不意に力の均衡を崩した。猛々しさに、禍々しさが呑まれる。はっと表情を引き締めた景時の隣で、そっと感覚の触手を伸ばしながら状況を細かに探ろうと試みる。きっとそれが、一番の油断だったのだ。


 五感とは異なるその感覚を開いた途端、襲ってきたのはとんでもない衝撃だった。胸から背へと貫かれる感触に続き、内から力という力を根こそぎ食い荒らされる錯覚。衝かれた勢いで落馬したことに気づいたのは、視界を染める一面の蒼が、空の色だと思い至ったから。
 感覚が戻らない。蒼穹が削り取られ、代わりにナニかが影になっている。見えない、視えない。わかるのは、空が蒼いことだけ。
 空っぽになった体には、何も残っていなかった。思考が千切れて、溶けていく。まるで夢のようだった。ただ蒼だけが広がる、音もなければ温度もない空間に漂う自分。現実が遠い。ならばこれは、きっと夢なのだ。
 影が次々に入れ替わる。蒼を埋め尽くすほどに、たくさんの影で視界が遮られる。
 その中に、紫水晶を見つけた。泣きたいほどに懐かしく、愛しい。と彼だけが知る、の罪を余さず見つめていた瞳の、色。


(迎えに来てくれたのですか?)
 問うたつもりの声は、唇さえ動かさない。けれど、相手がはっと目を見開いたのは見えていた。影が、誰かの顔なのだと理解される。
(次こそ、きっと、共に――)
 あなたと、共に。わたしだって、生きてみたかったのだ。告げるきっかけをどうしても得られなくて、結局言葉にできなかった。でも、きっと知っていてくれた。だから、手向けてくれたのだ。どうにも叶わなくなって、退き返しようがなくて、それを告げればさらに強い未練と呪縛になると知っていて、けれど告げないこともまた悔いになるとわかっていたから。
 笑えていればいいと思った。指先はおろか、瞼さえ微塵も動かないけれど。だって、最期なのだ。同じ光を湛える蒼穹に溶けられるなら、同じように、穏やかに微笑んで散りたい。
 同じで違う瞳の向こうに、もう見られるはずのない深紫が笑っていた。哀しそうに視線を伏せて、けれどやさしい光を湛えて。

Fin.

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