朔夜のうさぎは夢を見る

真白の切っ先

 男の周囲は、ある一定以上の距離に視界を遮るもののない、不思議な空間と化していた。朝日によって徐々に明かされる地の色は、紅の混じる闇色。平らな部分などろくにないと思えたそこは、折り重なるようにして倒れるいくつもの屍ゆえに。
「源氏の、将か」
 名のある将同士が出会えば、名を名乗りあい、一対一の勝負へと持ち込まれるのが常道。庇いだてたり横から手を出せば、それは己の不名誉となり、自軍の辱となる。
「源範頼殿が配下、暁天将と」
 相手は馬に乗っていない。それに合わせて自分も馬から降りてが名乗れば、追いついてきた両軍の兵達が心得た様子で足を止める。
「では俺は、還内府殿が配下たる、平家が末将……と」
 の名乗りをなぞるようにして嘯き、男はだらりと体の脇に下ろしていた両手を持ち上げる。それぞれの手には、多くの血糊にまみれただろうに、輝きの微塵も損なわれていない小太刀が握られている。
「お相手、願おうか」
「参りますッ!」
 言って地を蹴り、は一息に相手の懐へと切っ先を叩き込んだ。


 金属のぶつかり合う、鈍くて重い音が響く。一向に攻め手を返してこない相手はまだ余裕があるようだったが、だからといってそのことに悔しいだのなんだのという感想を抱いている隙はない。積極的に攻めてこないだけで、の攻撃を弾くついでに翳される太刀筋は苛烈。それらをかろうじていなしながら、喧騒も遠く、はひたすらに剣を振るい続ける。
 裂帛の気合と共に叩きつけた小太刀が震える。対してそれを受ける相手の小太刀は一本。即ち、片手で両手の一撃を受け止め、微塵も揺るがない。
「……その程度、か?」
 低く、男は呟いてふと双眸を眇めると、下段から残っていたもう一本の小太刀を振り上げる。そしてには、それを受けるだけのゆとりなどなく、慌てて後退することしかできない。


 悲鳴を上げないのは意地だった。噛み締める力が入りすぎたのか、唇に小さな熱を感じ、口腔には鉄錆の味が広がる。だが、それよりもよほど大きな熱が、左の脇腹で激しく脈を打っている。
「――ッ!!」
 痛みが感じられない。ただ、熱が疼く。思った以上の深手を悟り、は盛大に眉を顰めて相手を睨み据える。
「暁天将殿ッ!」
「下がっていなさい!」
 切迫した声が背中から呼びかけてくるが、振り返るゆとりなどあるはずもない。男はまだ先ほどの場所から動いていないが、このまま距離を詰められれば、もうに勝ち目はない。
 表情の読めない視線が、静かにを見据えている。そして何を言うつもりだったのか、ふと口を開きかけたところで、不機嫌そうな目つきでちらと己の背後を見やる。
「御大将、お退きください! 還内府様よりの、厳命にございます。これ以上は――」
「兄上は、無粋なことだ」
 間合いには入らず、けれどぎりぎりの距離から声を張り上げる兵は、その手に見事な黒馬の手綱を引いていた。それをちらと見やって、面倒くさそうに男は刀を鞘に納める。


 自軍の総大将を無事に退かせるために平家の兵が前に出れば、そうはさせまいと源氏の兵も前に出る。だが、男がいる以上、両軍とも一定以上の距離を縮められない。一触即発にて再びの混戦へと立ち返るかと思われた只中で、黒馬に飛び乗った男はゆるりと視線を巡らせると、不意に声を張り上げる。
「退くぞ! 総員、還内府殿のお言葉を違えるなッ!!」
 声に重ねて法螺貝の音が響き、微塵の躊躇いもなく平家の兵達が一定方向へと走りはじめる。そちらは範頼が指揮したのとはわずかにずれた、けれど確かに海へと向かう道。
「逃すかッ!」
「追え!!」
 戦功を上げる機会を失ってなるかと源氏の兵達もその後に続くが、あろうことか最後尾に留まっている先の男がそれを許さない。足だけで馬を操って追いすがる兵を蹴散らし、両手の小太刀を振るって切り倒す。
「深追いは無用です! それよりも、御大将に合流をッ!!」
 ここで無用な戦死者を増やすこともない。それよりも散り散りになっているだろう兵を纏め、掃討軍を編成しなおす方が理にかなっている。兵達も、むやみに実力の違いすぎる敵将に突っ込むよりはその命に従う方が利があると判じたのだろう。本来目指すはずであった戦場へと向き直るのを、男は馬上で薄く笑いながら見やっている。
「次はいずこになるか……迷わず、また俺の許に来い」
「言われずとも」
 それぞれの言い方で再戦を言い交わし、そして二人は迷いなく互いに背を向け、己の目指すべき先へと馬を走らせた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。