朔夜のうさぎは夢を見る

真白の切っ先

 伝令の兵達の報告を捌きながら、は眇めた瞳でじっと霧の奥を見据える。味方の持つ松明さえ朧にしか確認できない濃霧のお蔭で、常以上に緊張を強いられる背筋には嫌でも冷や汗が絶えない。五感に限らず感覚の触手を四方に伸ばして周辺を探っているため、敵の伏兵が紛れていないことは確認できているのだが、同時に意識の隅をぴりぴりと刺激する気配がわずらわしいことこの上ない。
「暁天将殿は、一体何にそんなにも苛立っているんだ?」
「範頼殿」
 つと、横合いから馬を寄せてきた相手に軽く視線を流し、は小さく目礼を送ってから「申し訳ありません」と声を落とす。
「怨霊の気配がいたしますゆえ。恐らく、宇治川の辺りかと」
「ああ、なるほど。だが、それなら別に、心配はいらないだろう?」
 頼朝の異母弟である源範頼は、今回の行軍における総大将だ。性情の激しさと軍場における臨機応変な有能さが同じほど有名な武将であり、その才にはも一目置いている。何より、平家から寝返ったという点も女であるという点も頓着せず、ただ純粋にその腕を評価して自軍に加えてくれた度量の大きさに感服している。だから、頼朝にさえ詳細を語っていない己の異能の一端を打ち明け、こうしてその傍らにて軍場を駆けるという地位を確立するに至ったのだ。


 総大将と副将の会話とあれば、周囲の兵達は遠慮して一定以上の距離を置く。それでも念には念をと思っていっそう声を低め、はぽつぽつと探り当てた情報を告げる。
「怨霊の他にも、なにやら強大な気配が降って湧いた様子です」
「嫌な感じがするのか?」
「いいえ。逆に、不気味なほどに清浄で、かえってよくわからないのです」
 意識の隅を刺激する澱んだ気配は、怨霊のものだろう。悲しいことに既に慣れてしまったため、それはある程度耐えられる。だが、つい先ほど唐突に降ってきたあまりにも強大な陽の気の塊が、煩いほどに存在を主張している。それがどうにもわずらわしくて眉を顰めたところを、どうやらこの男は不明瞭な視界の中でも目ざとく捉えていたらしい。
「清浄なら、問題はないんじゃないのか?」
「怨霊の気配も徐々に削がれています。早々に正体を突き止める必要があるかと」
「なるほど、そういうことか。確かに、義経殿はその類のことは苦手っぽいからな」
 小さく苦笑をこぼす様子は実に気安い。唐突に降って湧いたといえば、九郎義経と名乗る青年と武蔵坊弁慶と名乗る青年も同様なのだが、こうして大らかに存在を受け入れ、同じ異母弟同士だからと急な参戦を許容し、さらには搦手軍の先陣を譲る辺り、暢気なのだか鷹揚なのだか。
 としては乏しい歴史知識の中でも燦然と存在感を放つ相手に出会った衝撃が強く、その人品にはあまり強い印象は持っていない。ただ、女だてらに軍場を駆ける在り方に眉を顰められたのが不愉快だったと、その程度だ。


 鎌倉に下り、頼朝の前に膝を折ったの存在はいかにも胡散臭いと疑われたものだが、共に下った御家人達のとりなしもあり、小競り合いの平定に一兵卒として加えられるうちに、その実力は嫌でも御家人衆の間に知れ渡った。そも、元はといえば似仁王の乱の平定をはじめ、数多の輝かしい戦歴を誇る平知盛と共に軍場を駆け抜けてきたのだ。弓も太刀も、扱いはそれなり以上。加えて平家軍が投入してきた怨霊に対して一定以上の打撃を与えられる術師であることが明らかになった段階で、の地位は確定した。
 御家人としての地位は、女であるがゆえに認められない。けれど、将としての地位は認めよう。そう言って頼朝に直々に与えられた二つ名は暁天将。源氏の世の暁のためにあり続けろと、それは戒めと皮肉を篭めた名。
 範頼と共に転戦することが多いのは、腕試しの意味を篭めた初期のうちにその扱いを任せられていた延長上にあるのだと知っている。そして、頼朝からの信の篤い範頼の監視下に置くことで、いつなりと処分できるようにするための処置でもあると。
 冷徹な、実に視野の広い男であることだと思う。さすがに武家政権の端緒を拓いた傑物は、その才の根本が違うのか。だからこそ、慎重に振舞わねばとも思う。ようやくここまでこぎつけた、この地位を、は失うわけにはいかない。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。