玲瓏なる思惟
事の顛末を知ることができるのは、きっとごく一握りの面子のみ。だが、迫る情動の深さは変わらないのだろう。誰もが声を失って唇を噛み締める様子を一瞥し、影はゆるりと足を踏み出す。
「お前のことは嫌いだけど、お前の意思は認めるよ。だから、その荷は私が奪い去ろう」
二歩を刻んだところで最初の流れる水を思わせる色を纏う姿に戻り、瞳の奥で燻ぶっていた憎悪と憤怒さえ抜け落ち、がらんどうの表情で呆然とどこかを見やっている望美の横を、通り過ぎる。
「お前達にはお前達の領分がある。その中で、存分にお生き。それこそが、幸いに至る最も正しき道」
歌うように紡ぎ、完全に過ぎ去ってから肩越しにちらと振り返って、神は冷笑した。
「そして、それこそが唯一の贖罪の道。過去も未来も喪われたこの世界を、けれどまっとうすることを私は許す」
これが、あてどなき螺旋へと帰結してしまったこの世界の定めだからね。
誰に聞かせるつもりだったのか、囁くというには堂々と、宣するというにはあまりにも気のない様子で、言いたいように言い放って、神は残滓など何も残さずに掻き消える。その音なき不可思議を覆い尽くさんばかりの勢いで場に響いたのは、絶望の一色で塗り潰されたかのような悲壮な慟哭。悲痛で、悲惨で、あるいは凄惨。
血を吐くように振り絞られる少女の絶叫に、将臣は自分と望美との間に穿たれた隔たりを知る。
もう、この世界にやってくる前の自分達には戻れない。その現実を呑みこみ、歯を食いしばり、互いに同罪だと薄く冷笑して当たり障りなく振る舞えることもわかっている。それでもやはり、自分達は互いの手で互いの手の中の大切なものを、あまりにも深く傷つけ過ぎた。
「……悪ぃ。俺、ちょっと外すわ」
崩れ落ちた望美を慌てて支えに行った弁慶を呆然と見やり、どうしたものかと混乱しているらしい敦盛に告げて踵を返す。視点が変われば視界に入る人物像は入れ替わる。複雑な表情で神子とその周辺人物の遣り取りを、それでも冷厳と俯瞰する漆黒の双眸を横目に、やはりとるべき行動を選びあぐねているらしい淡紫の瞳と視線がかち合う。
「兄上は、」
将臣には、彼に告げられる言葉はなかった。だから気まずく思いながらも黙って通り過ぎようとしたのに、背中から追いかけてくる声があり、その声はどことなくあの懐かしい男に似ている。
「兄上は、この思いに気付かないほど、無粋な方ではありませんよ」
あの男が最後の別れ際に聞かせてくれたのよりもやわらかな響きで、切なげに紡ぐ。音が湿っているのは、やっとの思いで「ああ」と返した自分の声もだろうからお互い様だ。
「今夜あたり、酒でも飲もうぜ」
敦盛ともさっき話しててさ、夜も良い天気になるだろうし、月見酒ってことで。うっかり足を止めてしまったことを誤魔化すように告げれば、どうやら律儀にも“主”に伺いを立てる気配があり、忌々しげな吐息が許可を伝える。
確かな返答を待たないまま、後ろ手に軽く手を振って場を後にしたのは、なけなしの意地だった。ずっと押さえこんでいた悲嘆と後悔と自責の念が溢れ出して、惨めにも誰かに八つ当たりをしてしまいそうな気がしたのだ。
絶望の底に叩き落されたのだろう幼馴染の少女が、何を抱えていたのかをつまびらかに知ることはできていない。憶測だけで彼女を詰ることはできないし、悪意や他意を抱えて生きているような人物でないことは存分に理解しているつもりだ。それでも、何もかもがあの世界よりもあまりにも重く、切実なこの世界で間近に接した狂気の一端を彼女が担っているのだと察してしまった今、将臣はぼろぼろになって泣き叫ぶ少女を労わる思いを前面に押し出せない。
この先を歩むことが世界の慈悲に繋がるのなら。この先を歩むことだけが懺悔へと繋がるのなら。
ならばやはり、自分は『逝かねば』ならない。この世界で存在を抹消し、ありうべからず“死”をもって“還内府”を殺してしまおう。もう時間を元に戻すことはできないけれど、そうして何気ない風を装って先に進めるほどには、精神が年月を知ったのだ。自分にとっての真実を不器用なような完璧さでもって覆い隠して、ただひたすらに、往くべき道を歩めばいい。
喧噪が遠くなったところで足を止め、仰いだ空は青かった。見知らぬ視点による記憶が伝える、薄く蒼い、突き抜けるような晴天。彼も、“彼”も、こんな空の下で逝った。なんだかんだで同じなのだなと、そんなことを言っては、どちらの“彼”も嫌がるだろうけど。
「ちゃんと、辿り着けよ」
ぽろりと零れ落ちた言葉はほろ苦く笑っていて、優しくて、淡い。ああ、自分はようやく悼めるのだろう。ふと湧いた感慨を自覚してやんわりと滲んだ苦笑の向こうで、青空がやわらかく滲んで揺れる。
その光景はまるで、水底から見上げたようだと思った。
Fin.
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