精霊祭り
なあ、お前らにも見えているか? お前らも、味わっているか? 数え切れないほどの相手にそう胸の中で呼びかけながら、将臣は淡く微笑を刷いた底抜けに穏やかな瞳で、庭で扇を翻す黒白の龍の神子と一門が戦姫を観賞する。
「うまい酒と肴があって、神様お墨付きの舞を見られる。ちゃんと“お盆”をしていると思うぜ?」
「そうだと、いいんだけどな」
「お前は難しく考えすぎなんだよ」
帰るのかと、そう問うた将臣に、帰れないと呻いた譲の根本はいまだに変わっていない。悔いて、恐怖して、苦しみ続けて。そう在る時期は、もうとっくに過去に置き去りにしてしまった。帰れないのは自分だったなと、思う心は苦くとも、痛みが凌駕することはなくなってしまった。
「慣れろとも、忘れろとも言わねぇよ。あんな戦乱、二度と起こすつもりもないしな」
酒精に灼かれた声が、どこか遠い。今夜は酔いが早いと、そんなことを、思う。
「けど、終わっちまったもんはもうどうしようもねぇ。だから、俺達は前に進むしかない。そうやって前しか見えていなかった俺らに、忘れるなよって、こうして改めて突きつけられたお前のことを、奴らが恨むわけはないと思うぜ」
たとえ冷たいと詰られようと、それが将臣の決めた道だ。わかってほしいとは言わないが、知っていてほしい。ふとそう思って言葉を積み重ねれば、思いがけない言葉が返される。
「……兄さんは、どうなんだ?」
「あ?」
「前に進むしかないって、それはわかる。俺も、それしかないって思うよ。だけど、こうして振り返ることをやめられなかった俺は、兄さんの過去を踏み躙ったりはしていないのか?」
横目で見やった弟は、不安と悲しみとほんのわずかな後悔を滲ませた瞳で、じっと床を睨んでいる。
馬鹿だなぁ、と思い、可愛いなぁ、と思い。変わらないな、と思った。
聡くて察しがよくて、不器用で詰めが甘い。こいつにあれ以上の戦乱を味あわせなくてすんで本当に良かったと思い、こいつに一度でも人の命を奪うという咎を負わせてしまった己らの運命が、酷く恨めしかった。
「踏み躙られるようなかわいげなんか、もう残っちゃいねぇよ」
「兄さんッ!」
ちびちびと杯の中身を舐めながら混ぜ返してやったというのに、生真面目な弟は声に険を混じらせてきつと視線を巡らせてくる。胸の中で矛盾する思いが深まるのを感じながら、ああ、もうあまりに弟扱いをしてはいけなかったのだろうかと、思い直す。
「俺には、振り返る資格なんか、ないだろうからな」
振り返っても、振り返りきれない。きっと、振り返ったところで見落とす命が出てきてしまう。それほどに、負うた時間はあまりに重みを持ちすぎてしまった。自己嫌悪をするでなくただ事実を見据えて紡ぐ声は平淡で、隣で息を呑む弟の気配に、申し訳なさが湧いてくる。
「いいんだよ。そういうもんだ。そういうもんだって、途中で何回も注意されて、それでもこの道を選んだのは俺だ」
注意をしてくれたのは、生き残っている者もだし、還ってしまった者もだし、逝ってしまった者もだった。自分は本当に恵まれていたと、改めて噛み締めながら、将臣はさらに息を詰めた弟に視線を流す。
「誰が何と言おうと、この道が踏み躙られることはねぇよ。俺は前に進む。進むしかないし、進むって決めた。そうやって道を繋いでいくことが、俺にまつわるありとあらゆる人達の死への誠意だって思うからな」
だから、気にすんな。そう紡いだはいいものの、酒のせいで掠れた声になってしまった。それでも、篭めた感慨は零れていなかったと思うし、秘めた覚悟もきちんと伝えられたと思う。まじまじと目を見開いてじっと自分を凝視してから、くしゃりと歪んだ瞳で「なら良いんだ」と呟いて譲は視線を庭へと戻す。
いつしか舞は終焉を迎えていたらしい。席に戻って杯を手に、やはり思い思いに過去を悼み現在を慈しみ未来を祈る姿をぼんやりと見流して、将臣はやはり穏やかに笑う。
「だいたいな、お前が心配するようなことを考えてたら、奴らが顔を出すかってんだ」
弟のささやかな願いをそのまま聞いて言葉通りの意味しか取れないほど、八葉の絆は薄くないし、義弟とその鞘たる娘は疎くもない。きっとその真なる願いまで含めた上で集ってくれたのだと、そして譲がわかっていないはずもないのに。
「ばあさんに強制されてやらされてた頃は、意味なんかまるでわかっちゃいなかったけどな」
「わかってたらわかってたで、それは嫌な子供だと思うけど」
「まあ、それもそうか」
こうして心穏やかに死者を悼み、成仏を願い、懐かしむ時間を持つことの尊さを知ったのは紛れもない僥倖。知らずに在る日々もまた得難い幸運に満ちた時間だったが、知った今と引き換えに立ち戻ろうとは思わない。
知らずに在るなら、知らぬままに。知るというなら、その上でなお。祖母はこの世界からあの世界に渡ったとはいえ、戦乱など知らなかっただろう。それでもこの行事を何より大切に扱い、厳しさと慈愛をもって孫達に刷り込んだのは、もしかしてこの未来を予見していたからなのだろうか。
「なあ、譲」
「ん?」
「ありがとうな」
思い出させてくれて。悼む場をくれて。分かち合ってくれて。生きていてくれて。
取りとめのない思いはすべて感謝へと行き着いたから、選んだ単語はひとつだけだったけれど、きっと聡い弟は察してくれると知っている。そして案の定、わずかに目を見開いてから困ったように視線を逸らす様子にうっかり喉を鳴らして瞳を細めた将臣は、耳に届いた「兄さんこそ」という小さな呟きに、そっと杯を掲げることで返礼となすことにした。
Fin.
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