ものもらい --- 後編
とはいえ、仕事を取り上げられ、しかも視界が不自由な状態では剣の稽古もままならない。そろそろ夕闇がひたひたと迫る刻限でもあるからと、とりあえず灯りを入れるべく燭台を取ろうと立ち上がるにあたり、うっかり目測を誤って脇息を掴み損ねた指先に溜め息を落とす。片目では遠近感が掴みにくいと、原理的にはわかっているのだが、その補正が難しいことに変わりはない。改めて脇息を慎重に持ち上げ、部屋の隅に片付けようと足を踏み出したところで平衡感覚の乱れを自覚する。
「――ッ!?」
襲いくる違和感に耐え、今度は慎重に足を運びながら、そろりそろりと目的の場所まで移動する。無闇に物を取り落としたりしたいわけではない。距離を違えないよう、ゆっくりと指を伸ばし、探るようにして燭台を引き寄せる。
「お前、おとなしくしていろと言ったのが聞こえなかったのか?」
少しは慣れてきたような気がして小さく口元を緩め、脇息は足元に。さて、灯をもらいにいこうかと振り返ったところで、見下ろす呆れかえった双眸と遠慮のない溜め息にぶつかる。
「知盛殿」
「何をしている」
反論は許されまい。悪いことをしたとは思っていないが、確かにおとなしくはしていようとしなかった。返す言葉に詰まり、とりあえず呼んでみた主は、胡乱な半眼での手元をじろりと見やる。
「暗くなってきたので、灯りを、と思いまして」
「誰ぞ呼べばよかろう。上げられた声に気づけぬほど、人手の足りぬ邸でもないぞ」
「そんな、どなたかの手を煩わせるようなことでは……」
さすがに邸の主付きという立場ともなれば、仕事の内容も限られてくる。汚れ仕事はしたことがないし、厨に顔を出すのは謹んでくれと嘆願されてしまった。違和感を覚えながらも少しずつ、自分がこの男に侍るのと同じように、自分に侍る存在がある生活に馴染んではきたものの、できることは自分の手で片付けた方が落ち着いていられる。
常識破りとも言える酔狂なわがままを、そして知盛は許容してくれていた。それこそが面白い、と。その庇護のうちにて成り立っていることを知りながら、ありがたく甘えて自分と周囲との妥協できる境界を探りながらの生活は、あたたかく優しい。だからこそいっそう迷惑はかけたくないと思い、そこから「できることは自分の手で」という原点に立ち返ってはこうして周囲を驚かせ、呆れさせ、振り回しているのはなんともいたたまれない心持ちになってしまうのだが。
独り言にも近かった言い訳に、自分がまたもこの世界では通用しにくい観念を持ち出してしまっていたことに気づき、は言葉を切って頭を下げた。
「お邸の皆様のことを侮っているわけではないのです。つい、いつもの癖で。申し訳ございません」
仕事を控えておとなしくしていろ、と言われたからには、この手のことは誰かに頼むのが筋だったのだろう。主が率先して示してくれた気遣いを踏み躙り、まして家人達があてにならないから自分で動こうとしたのだなどと、そんな勘違いをされては困る。
そんな、とんでもない勘違いをする手合いでないこともわかってはいるのだが、知盛は時折、にこの世界の常識の中で生きているのだという自覚を促すためなのか、あえて意地悪い行動を取ったりもする。素直さと謙虚さこそが、畢竟、最も重んじられる要素なのだ。
「東の対屋は、お前が灯しているのだったか」
「使う方も少ないですし、知盛殿は、こちらにはあまり人を寄せていらっしゃらないご様子でしたので」
以前は安芸が担当していたらしいのだが、東の対屋に引っ越してきたにしてみれば、そういう細々とした仕事は最年少である自分こそが担当すべきと感じられたのだ。以来、夕刻に手燭を持って東の対屋を回ることがの日課に追加されていた。
握られ、所在無さげに下ろされている燭台が取り上げられ、無造作に元あった場所へと戻される。そして、衣桁にかけてあった袿を片手に、知盛は「ついてこい」と言って踵を返す。逆らう理由はないし、ここで変に抵抗して機嫌を損ねるのも得策ではない。気配同様、その思考回路の読みにくい主に素直につき従って簀子に出ようとして、柱に腕をぶつけては小さく眉を顰める。
「……何をしている」
完全に呆れ果てたと雄弁に語る瞳が振り返るが、今度はにも正当な言い訳がある。
「少し、目測を誤りました。視界が半分、塞がれておりますので」
自慢できたことではないが、何の理由もなくそこここで体をぶつけるような人間である、という認識は回避したい。いかんともしがたい事情ゆえだと主張して、何気なさを装ってその背に追いついたというのに、ふと宙をさまよった深紫の視線がに戻された時には、既にその瞳の奥にはいたずらげな光が燈されている。
「そうか……それは、気が回らず、失礼をした」
言ってにやりと笑ったと思えば、視野が塞がれているのだと訴えたばかりのの右手に回り込み、問答無用で膝を掬われる。
「ひゃっ!?」
見えない向こうで腕を伸ばされ、抱きかかえられたのだと知ったのは床を失った足裏の感触と、ごく近い真上から降ってくる小さな笑声ゆえに。思わず上げてしまった間抜けな悲鳴に火照った頬が、状況を理解するにつれてますます紅潮していく。
「臥せる度に世話になっているからな。此度は俺が、御身のお世話をさせていただこう」
「え? あの、知盛殿!?」
「なに、薬を塗るのも布を巻くのも、手に余ろう? やり方は、先ほど見て覚えたさ」
「ですが!」
「しかし、立ち回ることにさえ難儀なさっておいでとは、気づかなんだな……。案ずるな。治るまでは、俺の褥を貸してやろう」
それは即ち、治るまでは知盛の曹司で寝起きしろと言われているのと同義である。ただでさえその仲を様々に噂される身だというのに、なぜこうも、この主は周囲を煽るようなことばかりやりたがるのか。
抱えられて運ばれている身としては、あまり派手に動いて抵抗することもできない。落とされたくはないし、何よりそんなことをして主に傷でも負わせては大失態である。どこまでも愉しそうな主に何とか反論を、と思って息を吸い込んだは、ふと視線を横にずらして足を止められ、機を失ってしまう。
ちょうど左半身が知盛に接するように抱き上げられているため、から進行方向は何も見えないに等しいのだ。不自由ながらも身を捩って何があったのかと視界を得ようとするのに、動くなと言わんばかりに力を篭められ、結局断念せざるをえない。
「ちょうど良かった。これをしばらく俺の曹司に預かる」
代わりに知盛の顔を仰いで視線の向きを探り、見える範囲で情報を収集した結果辿りついたのは、その見やる先が坪庭をはさんだ向こうにある透渡殿だということ。そして、そこに恐らく、誰か女房がいるということ。枕であることはもはや邸内に限らず公認だったが、これでは何をどう誤解されるかわかったものではない。だというのに、よりにもよって知盛はの背を支える右腕に力を篭めてその上体を持ち上げると、布の巻かれた目許にそっと唇を寄せてくる。
「勤めもしばらく控えさせるゆえ、そのように」
布越しの、しかも薬を塗られた瞼越しでは良くわからなかったが、坪庭の向こうからは知盛がの目許に唇を落としたようにしか見えなかっただろう。抱き上げられているだけでも十分過ぎるほど型破りなのに、そんなことをされてはいくら諸事に疎いだとて艶事を連想してしまう。まして、この主の性質を存分に理解した、そしてとの関係を存分に誤解してくれている女房達の手にかかれば、どれほどの大事になってしまうのか。
「それと、俺もしばらくは物忌みだ」
「承知いたしました」
すんなりと返された了承は、安芸の声によるものだった。余計な誤解はされずにすむという安堵にほっと息をつくと同時に、はそのままさっさともうしばらく行った先にある曹司の御簾を、器用にもを片手で抱え上げて潜った主を凝視してしまう。
曹司は薄暗く、面した庭には既に夜の帳が降りはじめていた。奥まで入ったところでようやく床に下ろされたは、知盛がそのままちらと背後を振り返り、なんでもないように口を開くのをぼんやりと見やる。
「灯りを。それから、膳を二つ持て」
「心得ました」
いつの間に追いついてきたのか、御簾の向こうから静かにいらえる安芸の声があり、そして衣擦れの音が遠ざかっていく。
「あの、知盛殿? 物忌みとは、一体どうなさったのです?」
日頃のどこかからかう調子でそう口にすることはあっても、実際に知盛が物忌みを必要としている場面は病床に臥せっている時ぐらいしか知らない。何か穢れにあたったからとか、そういうことは気にしないらしい。神も妖も呪詛も日常に浸透している世界で、恐ろしいほどに彼は現実しか見ていないのだ。
その知盛があえて物忌みを必要とし、誰よりもその言葉の真偽を見抜くのに長けているだろう安芸が黙って了承したというのなら、それなりに理由があるのだろう。もしや、また体調が優れないのか。知らないところで怪我でも負ってきたのか。そう思ってじっと見つめた先では、暗がりにあってなお存在を闇に呑まれることのない深紫の双眸が、ぱちりと瞬く。
「どうもこうも、お前は障りを得ただろう? それに触れたんだ。俺とて、しばらくは内裏を避けねばならん」
何を当然のことを、と。そう雄弁に語る口調で言われてしまえば反論の余地もなく、知盛の主張は筋が通っている。そして同時に思い至るのだ。それが形式上のしきたりだと言ってのける主があえて自分を私室に引き取り、手ずから世話をしようと言ってくれたその真意の片鱗に。
その日から、家人の目に一切触れることがないまま、は知盛の曹司にて療養生活を送っている。曹司の外に出ても、呼ばれなければ近寄ってこないのだから基本的に誰に会うこともない。元々、臥せる度に人払いを徹底的にかけて寝込む主のいる邸なのだ。手の届く範囲に生活に必要なものはすべて整っているし、それを主の目に触れないように維持することにも慣れている。妙なところで知盛の完璧主義とも思える側面を垣間見た気がして、その徹底の中で例外扱いをされていることを自覚している分、は少しだけくすぐったい。
塞がれた視界にばかり立ちたがり、暗がりの向こうから声をかけてくるのはきっと半分はからかっていて、半分は気遣いなのだ。たとえ見えなくとも、は知盛を恐れない。見ることのできない、把握することのできない場所に立たれていても、警戒などする必要もない、すべてを委ねられる相手。不意打ちで手を伸ばされるのは心臓に悪いが、その手が自分を傷つけることがないとわかっているから、恐れる思いは抱かない。
「光なき世界とは、いかなものなのだろうな」
「わたしにはわかりかねますが」
随分と良くなった。そう言って腫れの収まってきたことを自覚できる瞼をなぞり、意外なほど繊細な手つきで薬を塗って布を巻いてくれる知盛の気配を感じながら、はそれこそ光のない世界で答える。腕が目の傍を行き来するため、間違って袖が入らないようにと指示を出された結果だった。
くるくると動いていた腕が止まり、頭の後ろで布が縛られる気配を感じる。いまだ鎖したままの眼前には、かぎなれた伽羅香の燻る温かな体温。そっと目を開けば、布を縛り終えた知盛はやはりの右側に移動して、暗闇の中に消えてしまう。けれど、そこにいてくれることを知っているから、は何も違和は覚えない。
「見えないと寂しいので、早く外せればとは思います」
手元に放置された治療具をてきぱきとまとめ、振り返れば知盛の背が見える。物忌みだろうがなんだろうが、舞い込む仕事を捌かねばならないことに変わりはなく、うんざりしながらも文机に向かう見慣れた背中。
それをちらと確認してからさっさと右目の、塞がれた視野に戻したというのに、追いかけてきた笑声に正しくその笑みを瞼に思い描いてしまう。果たしてどうやら過たず伝わったらしい意趣返しを兼ねた本音には、けれどやはり意地悪くも右目の側から、の視界に入らないようにして伸ばされた腕で腰をさらうという返答が与えられた。
Fin.