ものもらい --- 前編
違和感を覚えたのは、どうにも視野が濁るという自覚からだった。併せて言えば、右瞼の内側にも異物感がある。その段階でが思ったのは、他愛のないいつものちょっとした不調。すなわち、睫が目に入ったのだろう、と。
鏡はない。少なくとも、の求めるような明瞭に対象を映し出す手段としては、いっそ水面に顔を映した方が手っ取り早いぐらいだ。霞む視界で手早く修繕の終わった狩衣を唐櫃に収めたが目を擦りながら腰を上げようとしたところで、しかし先んじて背中からかけられる声がある。
「……どうした?」
決して周囲の気配に対して察知能力が低いわけではないと思うのだが、主の気配の絶ち方は半端ない。唐突に湧いた気配にびくりと肩を震わせ、それから膝を使って振り返り、三つ指をつく。
「お戻りなさいませ」
「どうかしたのか?」
だが、せっかくの挨拶にも返答はない。ただ、答えの返らなかった問いが重ねられるのみ。その傍若無人さというか奔放さというかが、なぜか憎めない。憎ませず、嫌悪感を与えない境界が視えてでもいるのか、彼はいつだって飄々とした様子での常識の三歩ほど向こう側を渡っている。
「目に違和感がありまして」
塵でも入ったのかもしれません。言ってそっと顔を上げたのは、主が眼前で膝を折る気配があったからだ。こうして隠さず気配を流していてくれれば、察することはそう難しくもないのに。
どうしても違和感が拭えず、右手で瞼を押さえて視線を持ち上げれば、思ったよりも近くに透明な深紫の瞳があった。
「手を外せ……あまり、触れるな」
言葉と共に手首をやんわりと掴まれ、引かれる。その武勇で名を馳せる主は、一方でとても雅やかな一面を持っている。浮き名を派手に流すからにはあるいは当然なのかもしれないが、自分よりも遥かに脆弱な力しか持たない相手への力加減を誤ることはない。
確かに強制力は持っているのに決して乱暴ではない所作で自由を奪われ、はやはり霞む視界でぼやける相手を見上げる。
「腫れているな。それと、膿か?」
そっと、手首を掴んでいるのとは反対の指がの下瞼をなぞる。少し冷やりとしたその感触が心地良いからには、言われたとおり、腫れて熱を持っているのかもしれない。
「何か、心当たりはあるか?」
「特に何も」
おとなしくされるがままになっている姿に、抵抗の意思はないと判じたのだろう。解放された右手はそのまま膝の上に下ろし、は思案するように軽く伏せられた長い銀の睫をぼんやりと見つめる。
「今日はもういいから、下がっていろ。後で、薬師を呼んでやる」
「……そんなに酷い有様ですか?」
思いがけず深刻な事態に発展しはじめたことに驚き、きょとと瞬いて問い返せば、呆れたように溜め息をつきながら懐紙を目許にやわらにあてがわれる。瞬いた際に溢れた涙を吸い、湿り気を帯びてやわらかくなった紙で、瞼の縁をなぞるように拭われる。
睫に絡む何か異物は感じていたのだが、そうして拭い取ったものを改めて示されて、は羞恥に頬を紅潮させて慌てて俯いた。呟くようにして「膿か」とは言われたが、確認をしていない以上自分の目許がどのような状態になっているかはわからない。ただ、拭われたその粘着質の膿とおぼしきものの分量を見るに、自分の顔が、決して主に対して無防備に曝せる状態でなかったことは確かである。
俯いたその手で懐を探り、同じように懐紙を取り出して目許を完全に隠すようにしてそっと押さえる。ただでさえその美顔を目にするたびに羨む気持ちと感嘆する気持ちを覚えている。相対値がプラスになりえないことはもはや基準にも等しいので僻む思いなど何もないが、あえてマイナスに突き進むことを甘受するつもりはない。
「………お見苦しいものをお見せしました」
改めて触れてみれば、瞼の腫れもかなりのものと思われる。ますます羞恥に火照る耳が熱いが、主は声音を変えない。
「見目良いとは言わぬが、そう、恐縮せずとも構わん」
世辞など言わないことはよくわかっているし、言葉を飾ろうとしない性質であることも知っている。ただ、気遣いができないほど無神経な人でもない。少なくとも、にとっての主はそういう存在だ。珍しくもわかりやすく宥める類の言葉を舌に載せ、主は腰を上げる。
「いいから、下がれ。薬師が来るまで下手に触れず、そのままにしておけよ」
「お心遣い、痛み入ります」
どうやら、彼もまたその足で外に出るらしい。さっさと簀子縁に踏み出した背中から返答はもらえなかったが、ちらりと流された視線が「いいからさっさと下がっていろ」と雄弁に物語っていた。応えて腰を上げるを確認して立ち去る背中はあっという間に遠くなる。それを少しばかり見送って、そしてはおとなしく自室のある東の対屋へと足を向けた。
知盛によって暇を出されたのは昼を過ぎたあたりの時刻だったが、どうやら随分と迅速に手を打ってくれたらしく、邸の主が直々に薬師を連れての私室をおとなったのは、夕刻にかかろうかという頃のことだった。
見覚えのあるその薬師は、知盛が体調を崩すと必ず呼んでいる翁。なんでも知盛が幼少の頃から見知っているらしく、他に腕のいい薬師の噂が出ようが何をしようが、主は呼ぶ相手を変えようとしない。そろそろ隠居をさせてくれと申し出ているらしく、最近では後継だという青年を伴っているのを見かけるが、今日は翁のみであるらしい。
下手に触れるなとは言われたが、とめどなく流れる涙は拭いたいし、ついでにじわじわと染み出す膿も拭いたい。妥協案として置いてあった提子から清水を椀に注ぎ、そこに浸してやわらかくした懐紙で瞼を押さえていたに、翁はやんわりと微笑んで「そのままで」と囁く。
「几帳なぞ使ってさしあげたいのですが、左兵衛督様が許されますまい。どうぞ、ご容赦を」
指示に甘んじて会釈のみで礼と挨拶を送ったは、言って笑みに揺れた瞳がちらと見流した先へと視点を移す。どうやら知盛は診察の一部始終を見ているつもりらしく、部屋の入り口で柱に背を預けて腰を下ろしている。
いつの間にやら絡げておいたはずの御簾が下ろされていたため、うっかり通りがかった女房に見られて気分を害させる心配もない。衣を脱ぐわけでもなし、どうせもう見られている。それに、言ったところで聞いてはもらえまい。こうと決めた主は本当に頑固なのだ。
ならば構うまい。そう腹を括り、はどこか申し訳なさそうな、それでいて諦めたとも悟ったともとれる様子の翁に笑い返してみせる。
「大丈夫です。よろしくお願いします」
「承知いたしました。では、さっそく診せていただきたいのですが」
言って伸ばされた皺の刻まれた手指が、優しくの指に触れる。
促されるままに懐紙を外せば、自由を取り戻した視野が途端に目に映る光景を霞ませる。
「ああ、なるほど。これはお辛いでしょうな」
押さえるものがなくなった途端に頬を伝った涙を、翁の指がゆっくりと拭う。
「少々、失礼しますよ」
そのまま、指先はの瞼をつまみ、皺の中に落ち窪んでしまった穏やかな瞳がじっと眼球を覗き込む。ふむふむ、と、頷きながら瞼を戻され、今度は視界を閉ざすよう指示を出して眼球をなぞるように上瞼に触れる。
小さく走った痛みに思わず眉を顰めて身を引けば、おお、と呟いて翁は仄かな苦笑をこぼした。
「申し訳ございません。痛うございましたかな?」
「いえ、大丈夫です」
「薬師に虚勢はいりませぬ。どうぞ、正直に。そうでなくば、正しく手当てができませぬ」
反射的に返した否定には、教え諭すような深い声が与えられた。言い分はあまりにももっともで、時代は違えど医療に携わる人間というのは同じ矜持と眼力を持つのかと、どこかで感慨さえ覚える。
「その、瞬きをすると、ちょうど先ほどのあたりが痛むのです」
「でしょうな。そこがまさに腫れておりますゆえ」
目尻に軽く置かれただけの指を意識しながら今度は正直に答えれば、ゆったりとした肯定が返される。
「これは見たことがございます。心配なさらずとも、しばし安静にしていてくだされば、治る病にございます」
そして、手元の包みから取り出した端切れに練り薬とおぼしきものを塗りつけ、目許を別の布で拭ってから静かにあてがう。
器用に頭の周りに包帯を巻きつけて目許のそれを固定し終わると、翁は黙って座り込んでいる知盛に向き直る。
「薬は改めて調合してお届けいたしましょう。今宵はこのまま。後は、朝と夕とに塗りなおしてくだされば、十日のうちにはきちんと治りましょう」
「そうか」
短い同意に頭を下げてから、翁は再びに向き直る。
「片目が塞がれては気に障りましょうが、ご辛抱くださいますよう。しばらくは、お仕えも控えられた方がよろしいでしょうな」
「……そうだな。そのなりでは、他の女房達をいたずらに怯えさせよう」
喉の奥で笑いを殺し、知盛はゆるりと腰を上げる。
「世話になったな。薬を届ける際には、俺を通せ。そう、言い含めておく」
「仰せのとおりに」
そのまま翁を送るつもりなのだろう。御簾を絡げて知盛はふと振り返る。
「お前はこのままおとなしくしていろ。……食膳は、届けてやろうゆえ」
「………承知いたしました」
幾分狭くなった視界で見上げた相手が仄かに笑みを浮かべている。あれは何か面白いことを思い立った笑みに似ているが、それよりは幾分、慰撫の気配が強い。逆らう理由もないはおとなしく頷き、今度こそきちんと床に指を置いて頭を下げる。
「ありがとうございました」
「どうぞ、お大事になさいますよう」
「はい」
やわらな声で、しかし否定を許さない案じの言葉に素直に応じて、は二人の退室を見送った。
Fin.