朔夜のうさぎは夢を見る

軌跡を生むもの

 遠い遠い月の都は、知盛の生きるこの時代とよく似た時間を“歴史”として蓄積しているらしい。退屈しのぎにと故郷の話をよく口に上らせる将臣は、そのことについては決して多くを語ろうとしない。だが、その瞳と纏う空気こそが何よりも雄弁に滅亡への道行きを訴えていると、なぜ気づかないのか。
 そも、そんなこと、あえて外側から指摘されなくともわかりきっている。昇った太陽は沈むしかない。その時がやってきただけなのだ。
「知っているんだろう? ……我ら一門が辿る、滅びへの道筋を」
「おまえ……」
 声は平静と変わらず、口調も何も変わらない。ただ、紡がれる文言が物騒極まりないだけ。
 枯れ庭は寂しく、けれどその侘しさこそがあわれ。時流がそれを望むなら、きっと逃れようがないのだろうというのが知盛の至った諦観。
 諾と呑まれるつもりはない。叶う限り抗いはしよう。だが、それは決して権勢への執着と同義ではない。たとえ廃れたとしても、守り、未来へと繋ぐべき命を繋ぐために自分は刀を手に軍場を駆けるのだろうと、知盛はいまだ訪れない未来を静かに見据える。
「お前を拾ったのは、父上の気まぐれ。お前にかまけるのは、一門の酔狂。……そんなものに、いつまでも付き合う必要は、ないさ」
 滅びの道行きを辿るのは、一門の者だけで十分。
 甘い汁を啜ったわけでもなく、その威光に驕ったわけでもなく、名に縛られているわけでもない。ならば逃れられる。今ならば縁を断ち切れる。滅びを『知って』いればこそ、この機を逃すのは、それこそ愚の骨頂というもの。
 こぼれる自嘲の笑みを殺そうともせず、喉の鳴るに任せていれば、苦りきった吐息が返される。諦めと、困惑と、悲しみと。背負う必要のないそれらを背負うのは、くすみのない魂の持ち主だからなのだろう。
 何と憐れなこと、そして何と不運なこと。こんなところに落ちてこなければ、月の都にあり続けていれば。きっと、今感じているだろう、あるいは感じてさえいない苦しみを知ることなど、永劫ありはしなかったのに。


 背中側に腕を下ろして反らした上体を支え、寒空を仰ぎ、知盛は言葉を継ぐ。
「滅びに巻き込まれれば、お前も軍場へと追い立てられるぞ」
「……きな臭ぇから、戦えるように鍛えてんだ」
「軍場は、お前が思うよりもよほど、地獄のような場所だ」
「………知ってる」
「誰かを切り、知己を斬られ、己が命を瀬戸際へと追い詰め……気が狂うものも、少なからずいる」
「わかってるって言ってんだろッ!!」
 振り絞るようなその叫び声こそ、現実を知らず、想像に怯えていることを如実に語っているというのに。
「わかっていないから言っているんだ」
 冷やりと畳み掛け、知盛は吐息だけで嗤う。
「逃れられるのは、今のうちだ。そのうち……そうだな、さほど遠からぬうちに。このままでは、すべての退路を失うぞ」
 それは確信。もう逃げ道は絶たれはじめている。一門の中でも、時流を読む目端の利くものたちは、それぞれのやり方で憂いを深め、逃げ道を模索しているものさえいる。まして、一門の総領として期待され、信頼と敬愛を一身に集めていたあの人と同じ顔、同じ声、同じ気質。いずれ、よすがを失った者たちが縋りつくのは時間の問題。そして、断りきれないだろう人の良さは明白なのだ。
「でも、それはお前だって一緒だろ?」
「俺は、一門の者。宗家の、嫡流という肩書きがどこまでもついて回る……。お前とは、負うものが違いすぎる」
 逃れようとは思わない。そして、逃れられるわけがない。だから知盛は受け入れる。栄華だろうが滅びだろうが、受け入れ、その中でできることを探すしか道がないのだから。


 どこかくすんだ空の青は、夏のそれとは違ってそっけなさの漂う色味だった。沈むことさえできなさそうな、薄い青。ならば海の青の方が好ましいというのは、単なる知盛の嗜好の問題であるのだが。
 ぎりりと何かに耐える気色があり、けれど客人はやはり愛すべき愚者だった。
「――それでも俺は、諦めたくない」
 椀の中身は既に空。空は茜色を失いつつあり、山の端には暗紫の雲がたなびいている。邸のあちこちで、灯りをともして回る女房たちの衣擦れの音が重なり合う。
「気まぐれでも、酔狂でも構わねぇよ。だって、俺はその気まぐれで命を繋がれて、その酔狂で心を満たされたんだ」
 射抜くような、鋭い、強い意志の篭められた眼差し。そう遠くない過去のことなのに、ひどく朧に感じるのは喪われたあの人の眼差し。重ね見るほどに違いが際立ち、けれど二人の差異がわからなくなる。庇護すべき子供に、敬愛していた広い背中が見え隠れする。
「何でもいい、自己満足だってのもわかってる。それでも俺は、少しでもいいからアンタ達の助けになりたい。滅びの道なんか、辿ってほしくないんだよ……」
 うなだれ、震える声を必死に絞り出す姿はひたすらに憐れだった。そして眩暈を覚える。こんな子供に重い責をなすりつけ、過剰な期待を押し付け、縋って縋って寄りかからねば立っていられない一門に、輝かしい明日など待っていようはずもないのに。


 震える背中から視線を外し、再び空を仰ぎながら知盛は溜め息を落とした。
 ああそして、そして誰よりも罪深く救いようがないのは、きっと己なのだろう。逃げ道をはきと示せば、反発するだろうと知っていた。曖昧に揺れる覚悟を、後押しする結果にしかならないとわかっていた。
 本当に彼を排除したいならば、有無を言わせず連れ去ってしまえばいいだけ。それなのにそうしないのは、彼の示す先に、かそけき希望を見てしまったから。
「……戦など、知らんのだろう?」
「ああ」
「人を殺めるはおろか、傷つけることさえ、お前の世界では重大な罪なのではないのか?」
「ああ」
「お前は、逃げるのではない。ただ……去る。それだけだ」
「でも、ここにいたいんだ」
 それは希望だった。まだ、一門には光をもたらす存在があると、そう確信することで縋りつく、最後の希望。詫びは決して口にせず、その代わりに知盛は、自分こそが将臣を守る最後の砦であろうと決める。
 戦う術を、生き延びる術を教えよう。その駒として、最たるものであり続けよう。弱音を吐き、本音をぶつけ、素顔でいられる場所であり続けよう。それはせめてもの罪滅ぼし。そして、願いを託すことへの、一方的な対価。
「ならば、滅び以外の道とやら、見せていただこうか」
 呟きは宵闇の喧騒に紛れ、しかし客人の許へと過たず届く。目を見開き、凝と見つめてくるのは驚愕と歓喜の眼差し。
 誰よりも遠いところで眺めているつもりが、誰よりも魅せられていたのかもしれない。ふとよぎった思いにこぼれた笑みが自嘲ではなく苦笑だったことは、何よりも雄弁な、知盛の想いの証だった。


(許せとは言わない、逃げるなとは言わない、投げ出すなとも言わない)
(ただ、どうか)
(お前の選び、お前の往く道をみせてくれ、そうすれば俺は、)

軌跡を生むもの

(お前の描いた軌跡を必ずや辿って、お前の繋ぐ奇跡へと辿りつくから)

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。