朔夜のうさぎは夢を見る

真夏の夜の夢

 気配は背中にあるのに、ぬくもりは微塵も感じなかった。ただ、存在感と黒方の香りと声だけで、背中合わせの距離を感じる。
「悔いているというのなら、この謝意を受け取ってくれ。どうしても何かで償いたい自責の念が君にあるなら、俺はそう要求する」
 ああ、これが"平重盛"という存在か。この男が、どこまでも喰えないと思った"義弟"にさえあれほどに切ない哀悼を滲ませた相手。生きながらにしてヒトであることを拒絶され、まったき光であり続けたという、あるいは奇跡そのものであった人。
「君は、俺達が誰ひとりとして見出すことのできなかった道を見出し、そこへと一門を導いてくれた」
「俺の力じゃねぇよ。それは、みんながそう願ったからだ」
「だが、願う先さえ、我らは見つけられなかったんだよ」
 優しい声が切なく揺れて、夜の闇へと溶けていく。
「黄泉より還りし小松内府だなどと、まったくもっておこがましい。君は、俺を遥かに凌駕して、そして一門の光となってくれた」
 それはどうだろう。凌駕するとかしないとか、そんなことは関係ない。ただ、自分という存在が"平重盛"の七光りに縋ることなく、自分自身として一門のために役立てていたなら、それ以上の喜びはないのにと、思う。
「ありがとう、有川将臣殿。一門が君という光に出逢えたことを、俺は、あまねくすべての神仏に感謝している」


 唇を噛んでも拳を握り締めても耐えきれず、俯いて肩を震わせる隣と背中で、全く違う気配がよく似た調子でさわと揺らいだ。自分と知盛もよく似た一面があるとは思っていたが、この二人もやはり"兄弟"であるらしい。血は水よりも濃いと言うけれど、それには限らないのだろうと、どこかずれた思考回路がぼんやりと感想を紡いでいる。
「還内府と、その名はいつでも捨てられる。一門はもう"平重盛"を必要とはしていない。君や知盛や重衡がいてくれるだけで十分だと、わかっているはずだ」
 穏やかに、穏やかに。包み込む声はあたたかく、やわらかな慈愛に満ちている。
「父上も、もうわかっているだろうけどな。たまに、よくわからないわがままをおっしゃる方だから、ちゃんと俺からも釘を刺しておこう」
 言って返事など待たずに、気配はその意識を将臣の隣へと流す。
「お前も、よく頑張ったな」
「……過分なお言葉、痛み入ります」
「また、そういう謙遜ばかり。たまには素直になったらどうだ?」
「有川殿を差しおいて、労をねぎらわれる権利なぞ……一門の者には誰にもありますまい」
「まあ、それはそうだがな」
 耳慣れない慇懃な口調でありながら、知盛の声に偽りは微塵もなかった。そんな風に思ってくれていたのかと、思いがけず収まりかけていた感慨がぶり返し、将臣は滲む視界で八つ当たりに似た衝動を押し殺す。


「だが、どうか受け取ってくれ。お前にも、本当に感謝しているんだ」
「恐れ多くも、ありがたく」
 横目でうかがう知盛の相貌は、声音と同様にただ切なくあたたかな郷愁に満ちて、たおやかな静けさを湛えていた。
「さて、あまり長居をしても、邪魔をするだけだろうしな。せっかくだから、顔を見たいもののところは、訪ね歩きたいし」
 からりと笑う深い声が、ゆらと揺らいで滲みだす。
「美しい声だな。水底にてたゆたうような、穏やかな眠りを導いてくれる」
「………届いて、おりましたか?」
「ああ、届いていたよ。そして俺を送ってくれた。お前の声と共に、な」
 からかうような、包み込むような、それはやはり深い声だった。小さく見開かれた深紫の双眸が痛みに歪み、けれど切なく優しく細められて「それは、ようございました」と小さく紡ぐ。
「将臣殿、どうか、コイツを頼む。不器用でわかりにくい、損な性格なものでな。悪い奴ではないんだが」
「知っていますよ」
 遠ざかる声は笑っていたから、将臣も笑みを滲ませた声で混ぜ返しておいた。一門の光と言われた人が最後に残した声が、一門を頼むというそれではなく、目の前の弟を案じる言葉だったことが、なんだか無性に嬉しい。自分とあの優しい一門との関係を丸ごと信頼してもらえたのだろうかとも思うし、このわかりにくい"義弟"との関係を認めてもらえたのかとも思う。


 気配が消えたことは明白で、けれど残り香が燻っているから、それが夢ではなかったということも明白だった。
「凄ぇ人だな」
 床に置いてあった杯に酒を注ぎ足され、ようやく背中をちらと振り返ってから、将臣は笑った。
「なんか、敵わねぇ。全然な」
「そうやすやすと、追いつかれてたまるか」
 そのまま手酌で自分の杯に酒を注ごうとした知盛から瓶子を奪い取り、注ぎ返してやってからどちらからともなく縁を触れ合わせる。
「弟君に、感謝だな」
 何について、とも、どうして、とも、知盛は言わなかった。ただ、この優しい夢のような奇跡に自分が満たされたことを知り、"義弟"が癒されたことはわかっていたから、将臣もまたそっと双眸を眇めて笑う。
「やっぱ、持つべきものはできた弟だな」
「では、"兄上"は幾人もの弟に恵まれて、本当に幸せだな」
「言ってろ」
 いつしか二人の日常と化しているくだらない言葉遊びの向こうでは、旋律を紡ぎ終えたらしい娘がゆるりと腰を折って、拍手喝采を浴びていた。

Fin.

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