朔夜のうさぎは夢を見る

真夏の夜の夢

 穏やかに優しい夜が更けていく。酒の追加を取りに席を立ったのを機に、今度は天地の対ということもあって八葉の中では特に親しくしていたらしい景時の隣に座って何やらぽつぽつと言葉を交わしている弟を視界の隅に、将臣はただ静穏を愛でる。
「兄上は、一人酒がお好みか?」
「お前、今夜は本物の"兄上"が帰ってきてる日だぜ?」
 そんな呼び方でいいのかよ、と。咎める言葉をやわらに紡いで、視線を持ち上げた先には気配もなくたたずんでいる年上の"義弟"。兄などと微塵も思っていないと雄弁に語る声音だからこそ、二人の間ではこの白々しい兄弟ごっこが、暗黙の了解を持った言葉遊びとして成立する。
「構わんさ……お戻りになられていたとて、別に、これしきのことを咎められるような、狭量な方ではない」
「狭量な"兄"で、悪かったな」
「悪くはないさ」


 身に染み付いたものは隠しようがなく、覆しようもない。勇将として名高いこの男は、同時に宮中での評価の高い公達。戦乱の日々を経てなお、挙措の優雅さは変わらない。切れのある無駄のない動きで、けれど音も立てずに流れるように。ふわりと隣に腰を下ろすことでわずかに揺れた空気が、伽羅を軸に据えた妖艶で幽遠な香りを運ぶ。
「胡蝶さんはいいのか?」
「女同士の会話には、口を挟まぬ方がよかろう?」
 杯と共に持参してきた瓶子から手酌で酒を酌み、ちろちろと舐めながら知盛は息を吐く。
「それに、神子殿は、俺があっては悼めぬモノがあるようだったからな」
 ふと、どこか遠くに投げられた声が何を示していたのかを、正確に推し量る術など将臣にはない。ただ、隣に座す男とあの幼馴染との間には思いがけない共通項が意外に多く、その一点に関しては、話を聞くことはできてもその本質を決して理解はしえないという現実のみを、精確にわかっている。


 互いにことさら言葉を求める性質ではない。好きなように酒を舐め、好きなように庭を眺めてこの特別な夜を過ごす。共にこの時間を送るということこそが二人にとっての哀悼なのだと、そう無言で理解しあえるほどには、共に重ねた時間は重いものだった。
 いったい何を話していたのか、さわりとざわめく気配を挟み、しじまに響きはじめたのは透明な歌声。今様やら詩歌やらを謡う声ではない。もはや遠ささえ感じる、それでも将臣にとって歌という言葉から真っ先に連想されるそれだ。
 夜闇を掻き乱すことなく、けれど沈んでしまうこともなく。凛と響く声は同時に確かな力の存在を感じさせ、そういえば彼女は、戦場では阿修羅を彷彿とさせながら鎮魂の祈りを捧げることで有名な姫将軍であったかと、思い出す。
「これが噂の、月天将の鎮めの唄か?」
「余力があらば、あわせて舞ってもいたがな」
 旋律に言葉を載せるという手法は、今様などで多少は見られるといえ、現代風のそれとは色味を大きく違える。詩吟に親しんでいればこそ、物珍しさと違和感が先に立つだろう。そして、それらを凌駕するほどに声に篭められた力は美しい。見開かれていたいくつもの瞳がそれぞれに和むのを見やりながら、将臣はどことない郷愁に薄く口の端を吊り上げる。


 立てられた片膝に無造作に置かれた腕の先で、盃が小さく揺られている。誰よりも彼女を間近に置いて、そのすべてを余すことなく愛でていたのだ。当然、この男が彼女の紡ぐ歌を知らないはずがない。慣れた調子でリズムを刻む指先に、二人の重ねた時間のあたたかさを思って、将臣は胸の奥がじんと痺れるのを自覚する。
 何もかもを失いたくなった。守りたかった。未来へと繋ぎたかった。ではそれは具体的に何だったのかと、問われて示せる事例があるとすれば、紛うことなくこの男とあの娘の示す安寧だった。
 豪奢な生活を望んでいるわけではない。贅沢を尽くしたいわけでも、栄華を極めたいわけでもない。ただ、あるべき時を、在るべき人と、あるべきように。そんなありきたりな願いがどれほど尊いのかと、栄枯盛衰の中で揺らぐことなく示してくれたのが彼らだった。
 煌びやかな日々においても、都落ちの道中においても、いつもいつだって何も変わらなかった男の背には彼女という静かな影があったのだと。知ったのはそう遠くもない過去のことだったけれど、知る限りの時間をその事実に繋げて察することは、決して難しいことではなかった。
「うまいな」
「そうなのか? 俺は、アレが紡ぐものしか知らぬゆえ、腕に関してはわからんが」
「ふっつーにうまいと思うぜ。ア・カペラでこれってことは、胡蝶さん、絶対音感あるのか?」
「……お前の言葉には、いつになってもついていききれんな」
 このまま回想の底に沈むと感傷が耐えきれないほど深いものになる気がして、意図して耳に届く旋律に思った言葉を紡いでみるものの、会話は成立しない。ただ、混ぜ返すような、呆れるような、どこまでもマイペースな返答が結局は慈愛に満ちていることを正しく聞きわけてしまい、どこかくすぐったいようないたたまれないような思いで、将臣はそっと眉を顰める。


 紡がれるのは異国の言葉だった。英語じゃないな、ということはわかるが、ではどこの言葉かと言われてもわからない。ゆったりと織り上げられる音調はどこか古めかしいから、あくまで印象ではあるが、きっと異国の神を讃える歌の一種なのだろうとの察しはつくが。
「これが鎮魂の祈りであるなら、では、いっそ葬ってしまうのもありとは思わないか?」
 漂ってきたのは黒方の香り。ぴくりと跳ねた知盛の肩を横目に、将臣はあまりに耳馴染みのある声に喉を鳴らして息を吸う。
「今宵に死者を迎え、そして送り火にて返すんだろう? だったら、ちょうどいい。ここは隠り野じゃないけどな。そのぐらい、叶えるだけの甲斐性はみせるぞ」
 からからと笑う声は豪気で、穏やかで、すべてを受け入れるようにあまりに深い。振り返りたい衝動と、振り返りたくない恐れとが螺旋を描き、全身を縛り付けている。
「一度、どうしても礼が言いたくてな」
 声が、深みと凄みを増す。知盛と重衡の兄弟を見て、質が似ていても決して同じにはならない声というものには慣れたつもりだったが、こうもまざまざと違いを見せつけられると、なんだか複雑な気分でもある。
 なるほど、この声には確かに誰もがついていくだろう。誰もが彼を奇跡と呼び、誰もが彼に焦がれただろう。
 そう、問答無用で納得させられる。過ぎるほどに美しい、聲。


「俺が諦めた夢を繋いでくれて、ありがとう」
 降ってきた声のどうしようもない優しさに、そしてついに将臣は膝の上で作った拳を震わせて、唇を噛んで背を丸める。
「還らなかったことを、悔いたことはない。だが、こうして誰かに押しつける結果となったことを、申し訳なく思わないこともなかったんだ」
「……押しつけられたんじゃなくて、俺が奪ったんだ」
 呻き、絞り出すのはどうしても拭い去れなかった懺悔。怖かった。辛かった。苦しかった。けれど、何よりも重かったのだ。負った名、それ自体もだったし、死者を利用するという、己のあさましさもまた。
「俺は、アンタの名を奪った」
 そして、彼を悼むことだけに向けられていた人々の思いを、形はどうあれ、少なからず将臣に対する思いとして奪い去った。そのことに対するどことない後ろめたさを、だって謝りたい相手は泉下に降ってしまったその人でしかなくて。
「礼なんか、言ってもらえる筋合いはない。俺の存在自体が、アンタという存在への冒涜になるって、ずっと――」
「君がそんな人間だったなら、知盛がとっくに見捨てているさ」
 なあ、と。絞り出すような将臣の懺悔を軽やかに遮って、穏やかに笑う声が宙にほどかれる。

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。