朔夜のうさぎは夢を見る

気にすること

 たとえばそれが、その邸にて養われている別の少年であったなら、きっと誰もが疑問を抱くことなどなかっただろう。微笑ましいこと。いつものこと。まったくもってあの主はしょうがないのだから。そんな感想を誰もの胸に齎して、うっかり眉尻を下げた笑みを浮かべさせて終了するはずだった光景。
 しかし、それが普段は別の邸の奥にて誰よりも誰よりも大切に、丁重に、厳重に守られている少年であるから、そんなのんきで常識から二歩ほどずれた感想は浮かばない。見かけた誰もがあまりの異常さに目を見開き、息を飲み、時に真っ青になり声を失う。けれど、抗議の声はすべて当の少年によって封じられ、却下されてしまっていた。同時に傍らに侍る一門が誇る勇将に淡く、実に珍しいやわらかな苦笑で窘められるのだから、反駁のしようがない。
 そうして調えられたあまりにも非常識に過ぎる、そしてどこまでも穏やかで平和な静寂に、ふと入った罅がまた実に微笑ましくて。
「あ」
 唸りながらもきっと当人の感覚としては沈黙を守っているつもりだったのだろう。うっかり上げた驚愕と落胆の混ぜ合わされた声に、びくりと肩が跳ねるのだから可愛らしい。もっとも、その内心はおくびにも出さない。胸中のみで笑うことなど、慣れたものである。


 おずおずと流された探るような視線にも、もちろん気づかないふりをする。気づかないはずがないと、きっと邸のものに限らず一門のものならば誰もがわかっているだろうが、ここで気づかないふりが出来る人間だということを、少なくとも邸の面々はやはりわかっているだろう。だが、同時に手の動きを少し緩めることにした。多少あからさまに過ぎるかとは思ったが、言い訳はいくらでもできるし、気づかれなかったならそれでいい。
 そのままうんうん悩む気配があり、じっとりと小さな手に握られた“作品”を睨む様子は本当に微笑ましい。もっとも、うっかり口に出せば今度こそ誰に不敬罪と言われるかも知れたものではないので、すべての感慨は胸に沈められるだけなのだが。
「あ、あの、知盛殿」
 そして、実に恥ずかしげに上ずった声で呼びかけられてようやく、知盛は隣に坐す位厚き少年へ堂々と顔を向けられる。
「いかがしましたか、帝」
「今は帝ではないぞ!」
 礼を失さぬように、しかしこの場は改まった場ではないからと口うるさい連中に見つかれば散々に嘆きと叱責の文句を喰らうだろう幾分砕けた調子で相対すれば、なんと当人からの叱責の声。もちろん、叱責をもらうだろうことは覚悟していたので、すかさず意外の表情を取り繕うことも抜かりない。
「今は、ただの言仁だ。そう呼んでくれないとだめだぞ」
「これは……失礼を、いたしました」
 少し困ったように、躊躇いを載せた苦笑はけれど本心でもある。微笑ましいという感慨だけは丁寧に覆い隠して、知盛は要求を叶えた上で、最初の問いを繰り返す。
「して、いかがしましたか、言仁殿」
 正された呼び方に満足したようにひとつ頷き、すぐさま気まずそうに視線を逸らす様子がまた微笑ましい。器用にも手の内の“作品”を袖に隠しているのだから、なおのこと。


 じっと己の手元を睨み、知盛の手に隠さず握られている“作品”を睨み、上目遣いにもう一度、自分をじっと見つめている知盛を見やり。言仁は消え入りそうな声で「失敗してしまったのだ」と訴えた。
 それまでは必死に強がっていたのだろう。ぽろりと言葉になって零れ出てしまえば、勝気な瞳があっという間に潤んでいく。
「じ、自分で直そうと思ったのだ! でも、その、わからなくなってしまって」
 つっかえつっかえに訴えかける声が湿り、喉が鳴らされている様子がまた微笑ましい。しかし、ここでうっかり程度にでも笑う気配を漏らしては言仁をいたく傷つけることになると気づけない知盛ではない。小刻みに震えるほど力を篭められた小さな左手を、手中のものを膝に置いて、両手でそっと包んでやる。
「どうか、見せていただけませんか?」
「せっかく、知盛殿に、途中までやってもらったのに……」
 躊躇うように見上げてくる瞳は頼りなく、叱られるのを恐れる幼子そのものである。このような表情を知る者が、さて、どれほどいるだろうか。この少年は、この世の日月とも仰がれる実に尊い存在。しかし、その立場ゆえに、このような年齢相応の表情が非日常となっている。
 何が大切で、何に重きを置いて、何を貫いて。その価値判断は人それぞれというのが知盛の持論だし、しがらみゆえの表面を取り繕うことの必要性も知っている。だから、これは自身が抱く勝手な感慨だと冷徹に囁く理性の声を聞きながら、疼く感情が少年を縛り付ける立場を痛ましく感じる思いを否定する気にもなれない。
 思うだけならば自由だろう。ゆえにと相手を束縛しないのなら、その思いゆえの多少の心配りも、許されるのではなかろうか。たとえ誰に非難されようと、その思いを向けた先で当人たる少年が不器用にも嬉しそうにはにかんでくれるなら。

next.

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