朔夜のうさぎは夢を見る

いずれ野に咲く彼岸花

 仕度をしろと、唐突に主がそんな命令を口にしたのは、桜がその名残さえ完全に散らしてしまおうかという晩春のことだった。珍しくも早々に宮中から帰邸したかと思えばの言葉にきょとんと目を見開きはしたものの、いい加減この主の突飛な発言癖には耐性がついている。
「仕度と申されましても、一体何の仕度です?」
「笠を」
 なるほど、そう言われれば目的はある程度かしこまった外出だろう。そいえば、主に伴われて外に出ることはこれでようやく三度目だ。一度目はあの美しき白馬と心を通わせたあの日。二度目は主の弟君にはじめて対面したあの宴席。いずれもにとっては重い意味のある機会ばかり。さて、二度あることは三度あるのか、それとも三度目の正直なのか。
「着替えはいらん……門前にて、待て」
「承知いたしました」
 結局何を目的とした外出なのかは教えてもらえないままだったが、どうせこのまま問い質したところで素直に白状もするまい。外出の旨を伝えるべき安芸が今の時間帯はどのあたりで仕事に勤しんでいるかを頭の隅で考えながら、はただ素直に承諾を返すのみである。


 日はいまだに天の高いところにある。暦の数え方のずれをもしもが正確に把握できているとすれば、日の長さはいよいよ増していくばかり。暑さ寒さも彼岸までというが、これから木々はいっそう緑を色濃くし、世界に満ちる生命は高らかに声を張り上げていくだろう。主の嫌いな夏が、やってくる。
 いったい何をどう言って説得したものか、珍しく随伴者が手近な場所に見当たらない。身分のこともあり、一人歩きはやめてくれと家長を筆頭に散々に懇願されているのに、この主は気楽で気ままなことをこそ好む。
「いずこに参られるのです?」
「これは、惨いことを」
 くつくつと喉で笑う独特の声が降ってくる。笠とだけ示されたからにはてっきり徒歩だとばかり思っていたのに、主は引いてきた黒毛の愛馬にを引っ張り上げると、並足で大路を行く。
「交わした約を、よもや枕殿は、お忘れになられたか?」
「約?」
 出かける約束など、果たして交わしただろうか。そう思ってはたと小首を傾げ、そしてすぐさま思い出したのはつい先般の、まどろみの半歩手前での口約束。ああ、そういえば言っていた。貴船に参らねばなるまい。そして、その折には時間を見繕い、主も同伴しようと。


 大路を抜けて都を北上し、北山を越えた向こうにこそ目指す社はある。参道の入り口にある鳥居の手前でようやく馬を降り、手綱を繋ごうともせずただ「この辺りにて待っていろ」とだけ黒馬に命じて、主は山の頂を振り仰ぐ。
「さすがに、清しく、そして恐ろしいほどの霊気だな……。どうやら、お待ち兼ねのご様子、だぜ?」
「……空気が澄んでいる、ということはわかりますが」
 それ以上の感覚など、にはわからない。常々感じていることだが、本当に、彼はその身に宿る溢れるほどの才能を過たず、余さず使いこなしている。羨ましく、妬ましく。同時に思うのだ。天賦の才ばかりはいかんともしがたい。だが、適うならばどうか、彼のように自らの身に与えられたそのすべてを余さず使いこなすための努力が実を結ぶようにと。


 お待ち兼ねとの言葉は、まこと、字面どおりの意味であった。社に辿り着き、そのまま主の先導に従って笠を脱いだが赴いた先には、巨大な平岩の上にゆったりと腰を下ろしている美しき蒼の人影。
「――よくきたね、私のカンナギ」
 ゆったりとした動作で視線を持ち上げ、ふっと綻んだ気配に慈愛と威厳の満ちた声が乗る。ぞくりと背筋を駆け抜けたのは、純然たる畏怖の念。
「あなたが、“タカオカミノカミ”様ですか?」
「かくも畏まる必要はないよ、カンナギ。私の神子よ。そうだね……高淤、と。そうお呼び」
「……タカオ様?」
「高淤の神……と、お呼びすることは。いかがか」
「ああ、その方が音が良いね。カンナギ、お前もそれでいいかい?」
 そっと言葉を挟んだのは、きっと彼なりにの非常識ぶりを補う意思があったからなのだろう。こうしてさりげなく手の届かない、目の行き届かない範囲を助けてくれることには、常々感謝の念とくすぐったさとが消えない。
「では、そうさせていただきます。高淤の神」
 わたしをこのような不可思議な理不尽に巻き込んだ、元凶たる至高の方よ。
 畏怖に震える足も、指先の冷えも、声のひび割れも何ひとつ隠すことなどできてはいないだろう。だが、それでもなんとか絞り出すことの適った言葉に、はまず己を褒め称える。そうだ、こんなところで退いてなるものか。だって、問い質さねばならない。自分は確かに今のこの世界での生をもはや喪えないと泣き叫ぶほどに愛してしまったけれど、そのきっかけをうやむやにされたまま水に流すには、あまりにも強気と、そして理不尽を糾弾するだけの矜持とを教え込まれた。


 驚愕の気配は間近から。感興の気配は正面から。一度でも目線を外せば呑まれる。今ですら、決して拮抗しているとは言えないのだ。
「どうぞ、因果のすべてを余すことなくお教えください。あなたはわたしを、人智の及ばぬ悲喜劇に巻き込んだ当事者。説明責任を果たせと、そう訴える権利ぐらいは、この矮小たる人の身にも与えられておりましょう?」
 強がりにしてはったりだ、こんなもの。それらすべてを誰よりも深く理解したうえできつと睨み据え、は堂々と胸を張って神の言葉を待つ。立場の違いなぞ、誰が斟酌してやるものか。それは同じ土俵に立ってはじめて考慮される可能性。フェアプレイさえ仕掛けられないのなら、相手がたとえ天の高みに坐す存在だとしても、畏怖は抱けども敬意も尊崇の念も、抱く筋などあるものか。
「美しい瞳だ。まるで神なる私のことをも灼き滅ぼさんとする、天の焔」
 お前は美しいよ、その魂の輝きを映す瞳が、まことに美しい。あくまで悠然と微笑んで嘯いた神は、怯みながらも逸らされない己が力を現し世に顕現させるための器たる娘の視線を真っ向から絡め取る。
「けれど、お前が灼き滅ぼすべきは私ではなく、我らがお前を巻き込まざるを得なくなった因果の根本。果てなく広がり続ける、虚無の生み出す矛盾だよ」
「……では、その矛盾とわたしとの因果を、神の御言葉をもって語ってくださいませ」
「よかろう、カンナギ。我が愛し子よ。その願いを、私は叶える用意がある」
 ゆぅるりと、吊り上げられた唇は妖艶にして酷薄。どうしようもなく恐ろしく、どうしようもなく美しい。その感覚を自分は知っていると、は思う。知っている。知らないはずがない。だってそれは、自分の感覚を凌駕した向こう側を悠然と逍遥しつづける主が纏うあの空気と、異なれども同じきものなのだから。


 語ると言った割に、神の言葉は少なかった。抽象的で、婉曲的。けれどそれらは確かに事実の核心をこそ貫いているのだろう。漠然と、しかし嫌というほど明快には理解した。どうやら世界は、の知らないひずみを抱えてしまったらしい。しかも、人為的に。そして、そのひずみを正すためのひとつの選択肢として、結局のところ最後まで「お前自身で探さねばならないよ」としか言われなかったこの力を人の世にて揮うために必要とされた、変換器にして媒体が自分。決して委細を告げられることのない、けれど確かに存在する可能性の確保のためだけに呼び寄せられた、この舞台に必要かもしれない、不要かもしれない駒なのだ。
「そう、卑下することはない。お前の存在は、まことに稀有なものなのだよ」
 表情を読んだのか、心を読んだのか。ごく簡単な因果の説明が終わったところで、神はようやく、無でしかなかった表情に慈愛を刷く。
「お前でなくば、私の加護にして力をこの世に顕現させることはできぬ。そして、お前の生まれたあの世界は、その能力を顕現させることはできなんだ」
「かの世界ではなく、この世界だからこそ顕現する力を有すがゆえに、呼ばれたのだと?」
「その通り。我らはお前の存在を、この世界にこそ必要とした」
 息を呑む音を殺そうと、そのことしか考えられなかった。告げられたのは、あるいは無情な言葉。けれど、にとっては確かに救いの一言だった。これでようやく、胸の底で燻っていた自嘲と自虐に終止符を打てる。自分は決して、あの世界に不要な存在と、そう見限られたわけではなかった。あの世界にこの身が軽んじられていたわけではなかったのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。