彼らの覚悟
見据える瞳は底が知れなかった。無明の闇を思い起こさせる、奥深さ。近い過去に見たなと思い、知盛が一切触れようとしない、その腹心の部下だった一人の将を思い出す。そうだ、これは彼女の瞳。彼女と同じ、矛盾を飲み下した瞳。
さて、次には何を言われるのかと。せめてただ呑まれるだけなどという無様は曝すまいと、丹田に力を篭めたヒノエは、しかし、横合いから降ってきた神妙な、覚悟したものとは違う声に視線をゆるりと動かす。
「あー。とりあえず、これまでのとこを纏めるとさ。要するに熊野は、源氏も動かせるって何らかの保証があったら、確実に和議に向けて動いてくれるんだな?」
「まぁね。相手はあの法皇様だからな。源氏にこっそり繋ぎをとって、裏をかいてくる可能性だって考えられる」
「それを防ぐためにも、源氏方の保証も欲しいって?」
「そういうこと」
口を開くだけで空気を変える人種というものが、世の中には存在する。それは天賦の才。どれほど努力を積もうとも、凡人では決して掴み得ない、ある種の支配力。ヒノエもまた別当職を務める以上、その手のものをある程度操っている自負がある。だが、将臣のそれは別格だと内心で舌を巻いていた。
室内にいつの間にか篭もっていた、重く垂れ込める、びりびりと肌を刺す剣呑な気配はもう残っていない。軽やかにそれらを吹き飛ばし、おおらかに包み込むような、将臣が誰もに向けていたあの、底抜けの笑顔と同種の空気がやわらかく満ちていた。
ちらと見やった先では、すっかり傍観の姿勢に戻った知盛が、どこか楽しげに仄かな笑みを刻んで瞼を下ろしている。
「いるじゃん、保証を取り付ける相手」
けろりと言い放ち、将臣は笑う。
「態度を保留にしてたってことは、まだあいつらも熊野にいるんだろ? だったら、話をつければいい」
席についた時とは別の、だが、当初の目的を微塵も失わない交渉に身を乗り出しながら、将臣は続ける。
「九郎に景時、つまり、平家追討軍の総大将に、軍奉行だろ? 俺が直接乗り込んであいつらをこの話に巻き込めれば、鎌倉の説得も何とかなる」
「……お前、自分が“誰”だか名乗る気なのか?」
「それが一番早いし、そうじゃなきゃ意味がねぇからな」
「本気で言ってるわけ?」
「本気だぜ? じゃなきゃ、はじめっから“還内府”なんてやっちゃいねぇよ」
あまりにあっさりと返してくれるが、その意味の重さを将臣が知らないはずはない。まじまじと見つめ返すヒノエに、今度は小さく苦味の混じった笑みを浮かべて、平家の血を持たない平家総領は頭をかく。
ヒノエは生前の平重盛をよく知らない。敦盛が京に戻ってからは自身も身を鍛えたり学ぶことが多くて、参詣に訪れる平家の公達の相手はしなかった。それ以前にしても、比較的年齢の近い知盛や重衡に敦盛ごとまとめて預けられるだけ。その知盛達にしても雲上人に等しかったらしい重盛は、ちらと見かけたことがあったり、挨拶を交わしたことがあるだけの相手なのだ。
だから、目の前で実に気安い仕草で髪を掻き乱す男のどこが重盛に似ているのか、ヒノエにはわからない。ただ、ああコイツは平家の希望なんだなと、それを直観した。
「俺はな、一門のみんなには何としても生きていて欲しいし、できれば幸せになってほしい。そのためにできることがあるなら、何だってやるって決めた」
しばらく言葉を探す様子をみせていた将臣が、ふと表情を削ぎ落としてそう嘯く。
「でな、できるなら、九郎達とも戦いたくなんかない。てか、戦なんか、ないに越したことはねぇんだ」
そうだろ、と。ごく当然だとばかりに問いかけられ、ヒノエは苦笑う。
「そのためには、正体を明かすのも構わないって?」
「おう」
「明かした途端、斬りかかられるかもよ?」
「あー、そん時は反撃せざるを得ないけどなぁ」
へらりと笑いながら覚悟は揺らがせず、けれど為さんと定めたことのためには、敵の前に身を曝すことさえ厭わないのだと言い切る。その気性は、あの、すべての希望を失ったといわんばかりの勢いで誰もが塞ぎ込んでいた平家にとって、どれほどの慶びだったろう。
清しい風だった。それは薫風。それは春風。九郎と似た、九郎のそれよりもおおらかで身近であたたかい、包み込む風。神職でもある己の感性に響く将臣の気性を、ヒノエはそう感じる。
「……そんなことにならんようにと、経正殿は俺の同道を求められたのではなかったか?」
「あ? なんだ、お前もついてくる気か?」
「………兄上は、この身を何だとお思いなのだか」
「いやいや、てっきり面倒とか言って嫌がると思ったんだよ。拗ねるなって! お前が一緒なら、すっげー助かる」
会話の途切れ目に絶妙な間合いで滑り込んできた吐息交じりの言葉に、軽妙な遣り取りが繋がれる。傍から見ているだけでもわかる、信頼に裏打たれた軽口の応酬。言葉の合間にふと流された深紫の視線が、ヒノエを捉えて愉しげに笑う。これが還内府だと、視線が雄弁に語りかける。
「――いいぜ」
恐らく、知盛はまだ何か奥の手を隠しているに違いない。漠然と思う予感をひとまず思考の隅に追いやり、ヒノエは熊野別当の表情で笑い返した。とりあえず、この場での駆け引きはもう充分。妥協しようとした所に、ヒノエの求める条件まで持っていくと言い返してきたのだから、お手並み拝見といこうではないか。
「話し合いの場がもてるよう、話をつけてやるよ。場所も提供してやる。間者なんか入り込ませない、完璧な密談の場をな」
「ああ、待ってろよ。こんなでっかいチャンス、逃す手はねぇからな」
振り返り、眩い笑みを向ける将臣の向こうで、知盛がふと遠い視線でその横顔を見やったのを、ヒノエは視界の隅に捉えた。そして、将臣を希望と直観したのと同じ唐突さで、コイツはそれでもかわいそうな奴のままなのかと、そう納得した。
Fin.