朔夜のうさぎは夢を見る

さざめくしじま

 たっぷりの湯で疲れを洗い流し、けれど胸の奥底に秘めたそれぞれの思惑はそのまま、一行はにぎやかに再び熊野路を辿りはじめた。本宮の手前までなら一緒に行けると、そう言い出した将臣に本格的な頭痛と眩暈を覚えただったが、何を言うこともできない。ただ、時折投げかけられる気遣わしげな視線に、九郎らに気取られないよう細心の注意を払ってやんわりと笑みを返すのみである。
 振り返ってみれば、常に知盛に付き従って戦線に加わっていたは、将臣が実戦で太刀を振るう姿を見たことがなかった。邸の鍛錬場やらをおとなって手ほどきを受けたり手合わせをしたりもしていたらしいのだが、あいにく、はそこにはろくに居合わせたことがない。日頃の身のこなしから、その成長具合を推察することはできても、将臣の“還内府”としての実力はよく知らなかったのだ。
 だからこそ、道々で九郎と並んで刃を振るい、怨霊を屠る姿には素直に見惚れたものだった。さすがに、九郎や知盛のそれと比べれば絶対的な修練と経験の量の差が見受けられたが、天賦の才もあったのだろう。危なげなく、実に堂々とした立ち回りに、兵達がこぞって彼を恃みとするその根拠が垣間見える。
「おや、さん。溜め息などついて、どうかしましたか?」
「いいえ、なんでもありません……。弁慶殿こそ、先ほど傷を負われたようでしたけれど、手当ては大丈夫なのでしょうか」
「なに? 聞いてないぞ!」
「大丈夫ですよ、九郎。ただの掠り傷です」
 水属性の怨霊に対峙していたため前線に出ていた弁慶が戦闘の終了と共に後方へと下がり、うっかり零した溜め息を耳ざとく聞きつけて顔を覗き込んでくる。それに当たり障りなく返しながら小さな意趣返しを送れば、即座に反応した九郎をいなし、参ったとばかりの淡い苦笑が振り返る。


 将臣が疑われるのは無理からぬこと。そして、弁慶はいまだにから平家方の情報を聞き出すことを諦めていない。会話の中にさりげなく織り込まれた数々の罠さえなければ、牢の中で疲弊しきって動かなくなってしまった身をを助けてくれたという恩もあり、決して嫌いではない類の人物なのだが。
「随分と目敏いですね」
「主の身辺にそつなく目を配ってこその、傍仕えというものにございましょう」
 自分達がどこの勢力かがわかるような会話や行動は慎むようにと、京を出る前に散々釘を刺されている。白々しい芝居だと思いつつ、あえて乗っているのは自分の立場を声高に吹聴して歩くのを好まないため。そして今は、この際どい八葉の絆に亀裂を走らせないため。
 いくら将臣がそれなり以上の腕の持ち主といえど、その身が害われかねないような事態は、避けるに越したことはない。あなたの思惑に乗ったりなどしないのだと、無言で抗議しながら八つ当たりは仮初の主に向ける。傍仕えと、そう言いながらも九郎はに対してどうしても敵将という意識が抜けないらしい。身分のある者をはべらせている、という戸惑いがありありと見受けられるのを無視して、はいっそわざとらしいほど丁重にその世話を焼いてみせる。
「手拭いなぞ、ご入り用ではありませんか?」
「あ、いや。大丈夫だ」
「さようにございますか」
 そのたびに突き刺さる、九郎を憐れむ視線と事態を面白がる視線には、同意しつつも靡かない。そして、戸惑いだらけの将臣と敦盛の視線には、どうか何も言ってくれるなと胸の奥で叫ぶのだ。


 女人を交えた道行きなれば、多少その進みが鈍くなるのかと思いきや、戦場に出る黒白の神子達は実に健脚だった。平家においては既に歴戦の、という肩書きさえもらえるほどの参陣の経験を持つ己を基準にするべきではなかろうとの気遣いは無用の長物。望美などむしろ、元気にざくざくと九郎と並んで先頭を歩む様が頼もしい。
 熊野に関する薀蓄のあれこれを景時と譲に説明を受けながら足を運ぶ将臣は、弁慶とヒノエを挟んでと朔の前方。そして二人の後方には、黙々と歩む天地の玄武がしんがりとして控えている。
 最低限に、しかし適度に休息をはさみながら、彼らが今目指すのは熊野川の上流。熊野権顕を経て熊野路を北上し、本宮への最短経路を踏破しているのだ。
 ここに至るまでの道中、晴天続きにもかかわらず氾濫が治まらないため川を渡れないのだと、山道を引き返してきた後白河院の熊野御幸の一行に出会った折にはさすがに血の気が引いたものだが、天下の大狸と称される辣腕の治天の君は、九郎に将臣、そしてヒノエを順に見やって意味深長な発言を残しこそすれ、決定打となる一言は決して口にしなかった。
 ただ、それがほんの気紛れで、きっとそれ以上の興味を惹かれる対象があったからなのだと、そう知れたのはその直後のこと。
「それにしても、はて。見覚えのない娘が増えておるようじゃが?」
「私の傍仕えの娘です」
「ほぉ、傍仕えとな」
 他愛のない遣り取りの中、せっかく目立たないよう後方に控えて顔を伏せていたというのに、嘯きながらめぐらされた視線は過たず真っ直ぐに注がれていた。きっぱり言い切る九郎の声はいっそ清々しいほどだったが、復唱する声は笑みに揺れている。


 どうせ噂は広まっているだろうと考えていたし、広められているだろうとも考えていた。敦盛は平家の中でも身分の低いとはいえない公達である。あくまで白龍の神子が“源氏の神子”として擁されている以上、その八葉が平家の公達であるとは公言しがたい。その隠れ蓑という意味でも、純粋に、平家方の兵の士気に影響を及ぼすという意味でも、月天将の名は有効。源氏の御曹司に召されたのだと、その情報が法皇の耳に入っていないはずがない。
 ねっとりと纏いつく視線の孕む意味は、考えたくもなかった。興味、関心、嗜虐心、そしてありとあらゆる権謀術数のための、手駒として使えないかという値踏みの視線。
 が自身にどのような価値判断を置こうとも、その身が纏う月天将の名は重い。そして、法皇は恐らく、源氏方の誰よりも正しく平家に対する月天将の名の重みと使いどころを見極めるだろう。だからこそ、その名を法皇の手に与え、平家との駆け引きの材料になることだけはごめんだった。
 駆け引きの材料になりたかったわけではない。ただ、は知盛の傍にいる理由が欲しくて、それを後押しする名声と地位ならば、いかなものでも利用するだけの心積もりがあっただけのこと。その裏にある、こうして敵方の手に落ちた際の危険性を考えないわけではなかったが、当の知盛が名を煽る一端を担っていたのだから、ならば応えようと努めただけ。


 名が高まっていた分、平家の兵に与えた衝撃は小さなものではなかっただろう。知盛や重衡、そして還内府といった主だった将がいる以上、決定打となる打撃を与えたとは思っていないが、建て直しの必要がまるでないほど影響が小さかったとも思わない。
 こうして捕虜として捕らわれているという事実そのものが、過ぎるほどの手間をかけさせてしまっていることは想像に難くない。いっそ処刑されていれば話はもっと簡単だったのだろうが、だからといって自害するには、は未来の可能性を捨てきれずにいる。ゆえ、せめてはこれ以上、自分のために知盛らの手を煩わせるような事態だけは何としても回避したかった。ただでさえ、約束を守れなかったという現実が、いつだって胸に重くしこりとなっているのに。
 だが、相手は仮にも尊きあたり。直視することさえ憚られる存在に、一体どうすれば見逃してもらえるか、にはほとほと見当もつかない。
「堅物の御曹司殿にも、春が訪れたということでしょう」
 と、なんとも言いがたい沈黙をさらりと拭ったのは、軽やかにして艶やかな一声だった。注がれていた視線が外されたのを感じ取り、伏せたまま流した視線は声の主たる赤髪の青年を正確に捉える。
「ははっ、そなたに言われると、なんとも複雑な気分よの!」
「花の愛で方に関しては、まあ、色々と言いたいこともありますが」
「言ってくれるな。そなたら熊野の男は、皆こぞって色恋に長じておるのだから」
「無論、黙って見守っておりますとも」
 にこりと笑って受け流し、そのままヒノエは川の怨霊は自分達が退治てこようとのたまう。
「どの程度の怨霊なのか、どの程度の時間がかかるのかもわかりませぬ。ゆえ、法皇様におかれましては、速玉大社をご覧になられてより、本宮にはごゆるりと参られてはいかがかと存じます」
「そうじゃな、それが良かろう」
 随分と強引な提案だと思ったをよそに、あっさりと頷いた法皇は控えていた舎人にちらと目をやり、取り巻く人々が移動の準備を整えるのを鷹揚に見やる。
「川を渡れるようになった折には、遣いなぞ寄越すがよいぞ」
「心得まして」
 ついでのように残された命に深く頭を下げたヒノエと、それに倣って三々五々に慌てて頭を下げた一行の見送りを受け、なんとも愉しげな、性質の悪い笑みを残して、老獪な権力者はゆったりとした足取りで山道を下っていった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。