えらぶみち
結論から言ってしまえば、将臣はつまるところ、稀代の大狸と謡われる老獪な智謀家にいいように遊ばれぬよう身を守り、要求を「確かに聞いた」と言わせることが手一杯であった。和議という選択肢に対し、考慮するとの言質は得られたものの、実際に仲介に立ってもらえる保証はない。状況は変わらず、むしろ、ことのついでとばかりに京の町で拾ってきたという源氏勢の次の動きに対し、いっそうの警護を敷くばかりである。
再び開催されるようになった連日の軍議はかなりの紛糾をみせたようであり、苛立ちを隠そうともしない知盛の尖った雰囲気を和らげたのは、源氏方に挙兵の動きありとの一報。鍛錬の場として利用していた三草山での行動を、どうやら挙兵の準備と見なされたらしい。そう嘯いてにたりと愉しげに報告の書簡を揺らしてみせた翌日の夜には、しかし、知盛は再び不機嫌な様子へと戻っていた。
ぶすりとむくれたまま杯を握る姿は、どう見ても不機嫌を紛らわせる自棄酒である。下手につつくよりは、自発的に愚痴を言い出すのを待つ方が賢明。そう判断して黙したまま控えるに、幾度かもわからなくなった溜め息の後、知盛はゆるりと視線を投げかける。
「……近く、一悶着あろう」
「先日の書簡の件ですね?」
「還内府殿が、またも愉快なことを言い出してな……。舞台は三草山で間違いないと。先んじて、罠を張った上で迎え撃つこととなった」
淡々と告げられたのは、将臣が持つ知識を利用した策のあらまし。なるほど、舞台がわかっているのならば、そこに至る道程の絞込みも可能。正面からぶつかり合うことを暗黙の了解とするこの時代の常識からすれば、ありえないと言われる奇策なのだろう。だが、それはこと平家においてはもはや今さら。むしろ、実に合理的かつ冷徹な、成功すればまたも“還内府”の名を高めるだろう堅実な策だとは感心する。
しかし、知盛の不機嫌の理由がさっぱり見当たらない。大概の将兵が戸惑いと躊躇いをみせる将臣の策を、知盛ばかりは「その型破り具合が面白い」と、愉しんで受け入れるのが常。罠が成功すれば正面切ってのぶつかりあいが少なくなろうゆえ、多少の物足りなさを主張するだろうが、それにしても、全体の益をこそ優先させる怜悧な将であれば、不満は決して引きずらないというのに。
「その中の一隊の指揮を、お前に預けたいのだそうだ」
小首を傾げてその不機嫌の由縁を思案していたは、だから、続けられた一言をうっかり聞き流しそうになり、一拍を置いてからひゅっと息を呑んだ。
それは無論、互いに了承したからには、きっと遠からず訪れるとわかっていた命。だが、いざ受けてみればその重さは、の想像など軽く凌駕するものであった。
「詳細はこれより詰めることとなろうが、大筋は固まった。さすがに、お前を軍議に出すわけにはゆかぬゆえな……これまでのあらましを聞かせるから、疑問や意見はこの場で出し尽くせ」
後は、それを俺が伝えようよ。の衝撃なぞ気にした風もなく、知盛は静かに言葉を続ける。そして、そこで一旦はさまれた沈黙と向けられた凪いだ視線に、は深呼吸ひとつで思考の流れを強引に取り返す。
惑い、驚いている暇はない。受け入れたなら、後は貫くのみ。感情の揺らぎを理性でねじ伏せて冷静さを取り戻すことなど、将として戦場を駆け抜ければいくらでも磨き上げられる技能。自覚を促し、我に返るために与えられた一瞥と時間に小さく頭を下げてから、もまた静かに口を開く。
「承知しました。お願いします」
「……兵力を、大きく三つに分ける」
力を取り戻した瞳と芯の徹った声とに仄かに目笑し、しかしその表情を瞬きひとつで冷徹な智将としてのそれに塗り替え、知盛は簡潔かつ適確に、将臣の原案であるという策を説明していく。
本陣は山ノ口という触れ込みにて空の陣を敷き、本隊は鹿野口。いずれの陣営に通じる道にも少数の伏兵を潜ませ、通りがかる部隊に奇襲を仕掛けて兵力を削ぐ。その上で、山ノ口に至るというなら、本隊を用いて背後を衝く。鹿野口に至るというなら、正面からぶつかり合う。
「さらに、途中の山道にも待ち伏せの部隊を潜ませて兵力を削ぎ、山中に散る伏兵の本隊合流を後押しするとのこと……」
わかったか、と、目線で問いかける知盛から視線を外し、床を睨んでは与えられた情報を急いで整理しなおす。
もっとも、知盛の説明は実に的を射ている。はじめに告げられた兵力を三分させるとの言を頼りに考えれば、おのずと可能性はひとつに絞られる。
「では、わたしはその山中の兵の指揮を?」
「と、いうよりも。その後の本隊合流における御旗印となることこそが、本分であろうな」
こくりと頷いて言葉を継ぎ足し、知盛は床から杯を拾う。
「細かい動きについては、追って指示が出ようが。……実際の伏兵は、その手の隠密に長けた者のみ。お前の役目は、本隊にて合流するそれらを纏め、軍場にて手薄となっている一角を衝く遊軍となるよう、指揮を執ること」
そして、軍議の場においてその立場からも、あまりに突出した才と戦功からも、一番の発言権を持つだろう知盛がそう言うのなら、おそらくそれが最終決定とほぼ差異のない指示となろう。告げられた内容を音に出さずに反芻し、は脳裏で、己のとるべき動きを思い描いてみる。
「遊軍としていかに動くべきかは、よくよくわかっておろう? なれば、その手足が増えたと思って、兵達を動かせばいい」
刃の届く範囲が広くなり、移動の必要がなくなったと、そう思えばいい。ただし、視野は変わらず、決して思ったとおりに動くとも限らない手足ゆえに、慎重さと大胆さの匙加減は、自身の手足を動かす際とはまた違うが。独り言のように与えられたそれは、間違いなく助言であった。将として兵を鼓舞することはあれど、指揮を執ったことはない。ありがたく耳を傾け、そして改めて、は背筋を走る緊張に息を呑む。
「手勢は、そうだな。総勢でも二、三十といったところか。それなりの手練れ揃いとなろうゆえ、初戦とは言え、そう荷が克ちすぎることもあるまい」
薄く笑ってそう嘯き、しかし知盛は「目の当たりにさせないとは、まったく、還内府殿も意地が悪い」と深く溜め息をついてみせた。
Fin.