彼らの関係性
そのもどかしさに満ちた表情を、将臣はよく知っている。磨き上げた刃の中に、覗き込んだ杯の中に、しょっちゅう映りこんでいる自分と同じ表情だ。
なしたいことがある。やり遂げねばならないことがある。そのためにはどうしたって絶対的な、揺るぎない力が必要なのに、手の内にあるのはごく限られた力のみ。そして焦燥感に駆られ、いっそ自棄にすらなっている時にふらりとやってきてはからかったり皮肉を言ったり、実にわかりにくい、時にはむきになって八つ当たりをしたくなるやり方で内心の焦りを蹴散らしてくれるのは、大概知盛だ。
ちらと視線を流して盗み見れば、知盛は実に微笑ましげにのその焦燥を見据え、小さく笑って干した杯を突きつけている。
「水島の件、いまだ拗ねているのか?」
「海上の戦には経験がありません。参戦を見送るようにとのご指示は、妥当な判断だったと承知しております」
「では、なぜかくも不機嫌でおいでなのか」
そつなく言葉を返しながら杯を満たし、音もなく瓶子を床に戻したに、知盛はひたすらに笑いを殺す。物言いたげにちらりと視線を流しはしたものの、結局は「自分の不甲斐なさが情けないだけです」と言うにとどめおく。
「ご不快にさせてしまいましたら、申し訳のしようもございません」
そしてそのまま優雅に三つ指をつく背筋は、凛と美しい。険悪とは言わないものの意味深げな様子に目を白黒させる将臣は、しかし、穏やかな苦笑を浮かべてことの次第を見守っていた重衡と経正の様子から、いつものことなのだろうと推し量る。
酒宴はそのまま話題を二転、三転させて穏やかに続き、月が大分高くなってきた頃、重衡と経正は申し合わせたように将臣を置いて退出してしまった。なんとなく席を外すタイミングを逸し、ずるずると流れに任せて知盛と無言で杯を重ねていた将臣は、いつになく自分が深く酔っていることを自覚させられる。酒そのものを過ごしたというよりも、取り巻く雰囲気に流されたとでも言おう。
だからだろうか。なあ、と。問うべきではないと思っていた問いが口を突いたのは、本当に意図せぬうちのことだった。
「歴史って、決まってるもんだと思うか?」
黙ってあくまで自分の調子を崩さず酒を呷り続ける知盛は、いつものことであるが、いつもよりも寛いでいるようだった。すべてが穏やかに包まれ、穏やかにほどけている空間。だからきっと、緊張の糸が綻んでしまったのだろうと思考の隅でぼんやり思う。
「運命っていうか、台本みたいのがあってさ。その通りに進むのが、歴史ってもんなのかな」
それは単なる独り言であり、単なる戯言。まじめに捉える必要もなければ、真剣に悩む必要もない言葉遊び。綻びは見える。違いも見える。けれども、肌に感じる時流は変わらない。滅びへの道が、ぽっかりと口を開けているようにしか感じられない。声の震えの自覚は、手の内の杯のさざなみとして視界から伝えられる。
情けない。そう自嘲しながらも、将臣はこぼれる弱音を止められない。『わかってもらえるはず』の相手を前に、必死に押し殺していた不安が蓋を押し開けて顔を見せる。
「従う義理が、ありますか?」
だというのに、与えられたのは不敵な笑いを孕む挑戦的な声だった。
「わたしは、まるで詳しくはないのですけど。それでも、いくばくかの齟齬があることはわかります。何より、わたしたちという存在こそが、イレギュラーの証拠」
自分以外の口から聞いた久々のカタカナ語に思わず目を見開き、ついと吊り上げられた口の端に視線が吸い寄せられる。
「時流は、歴史のせいではなくこれまでの一門の振る舞いの結果なのでしょう? ならば、変えられるとすればそれはやはり歴史ではなく、一門の振る舞いでしょう」
「変えられると、思うか?」
「それは、わかりません」
凛と言い切る口調に縋るように問いかければ、笑みはますます深くなる。
「ですが、変えたいと訴えるあなたに応えて動いている方を、少なくともお一人存じ上げています。それだけでは、心の支えには足りませんか?」
意味ありげに流された視線の先では、知盛が相変わらずの涼しい顔で酒を呷っている。何ごとも面倒くさそうで、どうでもよさそうなその表情があまりにもいつもどおりで、将臣は肩からふっと力が抜けるのを知覚する。
「いや。ひとりじゃないってだけで、十分だ」
「少なくとも、わたしはあなたの味方です。表に立つことはできませんけど、お手伝いできることがあれば、いくらでも手を貸しますよ」
わたしだって、一門の将の端くれですから。そう、いたずらげに笑う表情はとても軍場を駆ける姫将軍には見えないが、揺るぎない自信に裏打たれた、実に頼もしい笑顔だった。根拠はなく、しかし思わずつられるように笑って、将臣はにやりと意地の悪い視線を横目に流す。
「アンタ、本当にいいオンナだな。惚れそうだ」
「まぁ」
笑いに揺れる声で本音混じりに嘯けば、楽しげな感嘆の声とずしりと沈む不機嫌な気配。
日頃はどれだけ皮肉を言おうとのらりくらりとかわしてしまう知盛が、過ぎるほどにわかりやすく瞳に険を混じらせておもむろにを抱き寄せる。それは、自分から彼女が離れてしまうことへの不安ではなくて、自分以外のものが彼女に目を留めたことへの不満。読み解いたその思いに、どこまで自信満々なのだと、呆れる気持ちと同時に抱くのは底知れない憧憬。そう、自信を持って振舞えるほどの信頼を築く二人の関係性と、それを互いに諒解しあっている二人の絆に。
くすくすと笑いながら腰に回された腕を困ったように見やり、知盛の胸にもたれかかる姿勢となったは穏やかに将臣へと視線を移す。
「お褒めいただけるのは素直に嬉しいのですけど、あいにく、わたしは知盛殿のお傍にあると、そう約束しましたので」
声は、今夜耳にした中で最も穏やかで、あたたかな情愛に満たされていた。返答に少しは機嫌を直したのか、腰に回されていなかった方の腕がの前に持ち上げられ、空になった杯が揺らされる。腕に囚われていては不自由だろうに、それでも器用に身を捩り、は手馴れた調子で酒を注いでやる。
「あー、ハイハイ。ごちそうさま」
やはり同じく器用に身を捩り、胸にを抱きこんだまま酒を呷る知盛の様子も実に手馴れている。わかっていてからかったつもりだったが、想像以上の切り返しに素直に降参して、苦笑混じりに呻くしかない。
最後の瓶子がちょうど空になったのを合図に、捉える腕から抜け出したが「失礼します」と言い置いて台盤所へと歩み去る。ついでに空になった瓶子を抱えているが、足音は響かない。些細な部分に彼女の世界への馴染み具合を透かし見た気がして、将臣は小さく息を吐く。
「して、ご所望の相手にまみえたご感想は?」
「おう。やっぱ想像通り、只者じゃなかった」
「……あれの良さが、わかったのか?」
「それよりは、お前が渋った理由だな。……確かに、これは壊されるってか、誰にも穢させたくねぇな」
ようやく口に持っていかれた杯の向こうには、にぃと笑った知盛の眼がのぞく。
浮かぶのは、郷愁と慈しみと、抑え切れない切なさ。羨む類のそれではなく、惜しみ、哀れむ類のそれ。想定しうるのとは趣を異にする反応に思わず小首を傾げた知盛には答えず、将臣は揺らぎを押し殺した掠れかけの声を絞り出す。
「守りたいって、思うのは、傲慢か?」
万感の思いが篭められていることが明白な、切実な慟哭にも似た、声。
「失わせたくなんか、ないんだ」
揺れる肩の間に頭を垂れ、祈りが霞む。そして、与えられるのは赦し。
「好きにすれば、いいさ」
に向けていたのとはまた違う慈しみに溢れた声で、知盛は天を仰ぎながら嘯いた。
「お前の情の深さは、わかっている。――誤っていると、そう思った時には、止めてやる」
だから、お前は思うように振舞えばいい。それが、俺達にとって、最善の道なのだろうよ。言って杯を天に掲げ、知盛は最後の一杯を飲み干して笑う。
「孝行ものの弟を持って、幸せだろう? 兄上」
「………お前みたいな手のかかる弟、こっちから願い下げだってーの」
バァカ、と。震える声で毒づく将臣の杯もまた、応えるようにして知盛の視界の隅で天へと掲げられ、くいと干される気配があった。
Fin.