朔夜のうさぎは夢を見る

不器用な恋をしていた

 ふらりとやってきて、開口一番は「昨夜のあれは、お前のものか」という問いかけだった。足りない言葉の中身を必死に考え、空転する思考回路の中で何とか思い至った答えを掠れた声で「はい」と返した。挨拶を忘れたなと、そんな常識に我に返って額づく暇さえ与えず、次の問いは「相手を知っているのか」だった。
 昨夜のあれ、とは、昨夜、将臣に呼ばれた先の酒宴で乞われた演奏のことだろう。相手など知らないが、宵口の頃、遠慮がちな琴の音が旋律を重ねてくれたことは聞きとっていた。同席していた重衡もまた首を傾げていたのだが、どうやら知盛は琴の主に心当たりがあるらしい。表情の起伏に乏しい鋭い深紫の視線にたじろぎながら、ぎこちなく「いいえ」といらえればしばしの沈黙。
「……大変、切ない音だと、思いました」
 何事かをじっと考え込んでいるらしい風情はどこか儚くて、やるせなくて。どうにもいたたまれなくなって静寂を破った敦盛に、知盛は身分をわきまえない不躾を責めるでもなく、色のない視線を据える。
「その、もし、知盛殿があの方をご存知なら――」
「慰めることなど、できんぞ」
 言い淀んだ先をあっけなく、そっけなく、容赦なくも切なく切り捨てて、知盛はそれまでひたと敦盛に据えていた深紫の双眸をゆるゆると床に落とした。
「これもまた、あえかな幻への……夢想、だろうから、な」
 独り言よりもなお脆く、ほろりと言葉をこぼして知盛は手近な柱に背を預けた。そのまま腰を落として座り込むと、宵闇に沈む庭へと視線を放り投げて色のない声で「頼めるか」と呟く。脈絡の読みづらい会話はとてもやりにくいものであったが、横顔に滲む儚さは会話に上がった昨夜の琴の音を思わせて、敦盛もまた小さく「はい」と呟いて小枝に唇を寄せた。


 ただ、その一度だけだった。その一度だけ、その夜だけ。けれど、ほどなく重ねられた琴の音にかなしげに瞳を眇めた様子があまりにも印象的で、敦盛はそれから三草山に参陣するまで、二度と同じ時間帯に同じ曲を奏でることはなかった。だからなのか、偶然なのか、同じくして奏でられるあの切ない琴の音を聞くことは、二度となかった。
 奏でながら、思わずちらちらと様子をうかがってしまったことは、きっとばれていただろう。最後の一音の後、しじまに沈む余韻を追いかけるようにして瞼を伏せている横顔を凝視してしまったことは、もしかしなくても不快だったろう。ただ、この人もこのような貌をするのかと、そればかりが印象的だった。遠くて近い相手が偶像でも夢想でもなく、自分がもはや立ち返ることのできない、温かな血肉を持った人間であることを認識する己の思考回路を、他人事のように自覚した。そしてそれからほどなくして立ち帰った福原で、あの夜の知盛と同じ横顔を敦盛は見つけた。
 己らの築いた都への復帰を祝う宴席の設けられた夜の庭で扇を翻すよく似た銀色の兄弟を、見まごうことなく追い続けていた横顔は、見慣れない一人の娘。出で立ちからしてそれなりの身分だろうに、女房に囲まれるでなく、御簾の奥に座すでなく、離れた透渡廊に凛と立ち尽くしていた姿を見つけられたのは、皮肉にも人ならぬ身としての異能ゆえに。また、余人には到底及びもつかないだろう敏さをもって察知していたのか、舞の終焉と共に身を翻してしまった背中を追いかける深紫の視線に、敦盛はあの不可思議な夜の琴の主を知ってしまったのだ。


 怨霊の身の上を厭われていることを知っていた。その上で彼がわざわざ訪ねてきた夜は、本当に不思議だった。
 遠く眩しい従兄達の中でも、ひときわ異彩を放つ、どことなく一方的な親近感を覚えていた相手。ほんのわずかに距離が縮まったような気がして、彼の中に深く埋もれた真理が見えたような気がして、けれどすぐに敦盛は一門から身を切り離した。たった一度垣間見ただけの、もしかしたら単なる勘違いかもしれない勝手な推測。だが、あの遠い従兄のことが敦盛はずっと気にかかっていて、目を逸らしながらも羨み、妬んでいたのだ。的外れな推測としてすべてを片づけるには、ぴたりと当てはまる符牒が多すぎたのだ。
 終わらせるべきだとは思ったが、一門の誰ひとりとして、不幸になってほしかったわけではない。立場からして非常に困難だろうという冷徹な予感もあった。だが、無論、敦盛は知盛にも幸せになってほしかった。だって彼は己と違って病がちな身に呑まれず、むしろ凌駕して堂々と生きていて、恋う相手がいて。あんなにも切ない瞳で、互いの背中を見つめていて。


 それでもすべてはもはや、冷たい水の底。確かめる術は残されておらず、垣間見ただけの姿は霞のかかった記憶の底に。二度と垣間見ることなどないはずだった。それなのに冬晴れの空の下で切なくこぼされた声を聞いて掘り起こされ、遅すぎる確信と共に繋がれた恋模様の顛末の哀絶を、将臣の口から聞き知ったのはあの夜からは想像もつかないほど遠く、平泉の雪の中。不変の過去を振り返り、今さらのように思い至る。あまりに遠く、目を逸らしてばかりだった眩いばかりのあの従兄も、血肉を持ったひとりの人間だったということに。
 不器用な恋をしていたのだという確信はもう確かめる術などないけれど、胸に迫る見知らぬ感慨に、今さらのように喪われた可能性を思って敦盛は唇を噛む。
 ほんの一瞬を垣間見ただけの自分でさえ思い至るのだ。震える声を振り絞って踵を返し、隣をすり抜けた将臣も、きっと同じ思いを抱いているだろう。背後に立っているはずのもう一人の銀色の従兄も、また。
 知りえない世界の行く末を神によって告げられ、ありえない可能性を神によって齎されたこの瞬間さえも、すべては“もしも”を思うだけの不変の過去として積み上げられる。そして意外に風雅を愛でる性質であったあの従兄は、敦盛の笛が好きだったという。それもまた不変の過去であり、その死を悼むことにさえ思い至らないほど、敦盛はあの従兄への思いが浅くはない。
 ただ思い出すことしかできない過ぎ去ってしまった時間を悼むのに、ふさわしかろう旋律を知っている。ならば、あの夜の旋律を僭越ながら手向けとして送ろう。一門を見限った自分に立向けなど送られても愉快な気分ではないかもしれないが、不快だと切り捨てるような狭量な存在でもないと知っている。その確信もまた不変の過去にしたいと、そう、切に願ったのだ。それが、たとえ朽ち果てるだけの過去だとしても確かに紡いだという揺るぎ無い誇りの礎だと思い知ったから。
 どれほど遠くとも思いださざるをえないあの従兄の恋うていた娘の、奈落のような絶望をもって。

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Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。