とこしえの先までも
霊力の回復を主目的として入院していたは、目を覚ましたその日のうちに卯ノ花から退院の許可をもらうことができた。にこにこと微笑む表情はあくまで柔らかく、瀞霊廷の医療の頂に君臨して長く慕われ続けている根拠を見たように思える。そして同時に、長く隊長位にあるという怜悧な側面も、また。
何も言うな、と。告げられたのはそれだけだったが、その裏に潜まされた思惑を微塵も読み取れないほど、は愚鈍であるつもりもなかった。
目を覚ましたに、さほどの霊力などないことは誰の目にも明白だった。斬魄刀はもうの声に応えない。徒人よりは多少霊力のある、さほど珍しくもない瀞霊廷の住人へと戻ったのだ。
無論、その事実を見抜けない卯ノ花ではない。目を覚ましてすぐ、懐かしい人の見慣れぬ姿にほんの少しだけ笑って、みっともないぐらいに泣いて、気分が落ち着いたところで直々に診察をしてくれたのが彼女。そして、あまりにも多くのことが一度に起こったため、少なからず記憶が混乱しているを早々に義両親のもとへ戻そうと断言してくれたのも、彼女。
記憶の混乱ばかりは、誰がどうしたところで治せるものではない。幸いながら、今回の騒動に巻き込まれるまでのいわゆる“日常”についての記憶は完璧だった。そのため、安静を心がけながら、後はこれまで通りに暮らしていればいいだろうという判断に至ったのだ。
自分はともかく、知盛はどうなるのかとの不安の尽きないではあったが、まさか状況も良く飲み込めていないのに口をはさむわけにもいかない。卯ノ花の前では平静を装ったものの、彼女の退室と同時につい視線を巡らせた先では、それこそ見慣れた泰然とした無表情が「気にするな」とあっさりのたまうばかり。
お前にはお前の職分がある。俺にも俺の職分がある。この世界での日常を、既に俺達は築いているだろう? なれば、その只中へと戻るだけ。案じずとも、様子見にお邪魔させていただくつもりだ。
言ってやわらに髪を梳かれて、彼がそう言うならそうなのだろうと、うっかり根拠もなく納得してしまったのが十日前の夕方のこと。宣言通り、義両親に迎えに来てもらって退院してより、知盛は三日に一度の割合でふらりと店を訪ねてくれる。
退院時に記憶の混乱やらについて、四番隊隊員として一通りの説明をしてくれたことも、が自ら覚えている限りのことをかいつまんで説明したことも。驚きながらしかし嬉しそうに受け止めてくれた義両親は、義娘にようやく春が来たと、にこにこ笑いながら知盛のことをもてなしてくれるし、に店の仕事はいいからと時間を与えてくれる。
会うたびに、二人は他愛のない会話を通じて互いの知らない時間をすり合わせる。は今の義両親に引き取られてから、これまでの日常を。知盛は死神となってからの日々のことを。
記憶が抜け落ちたまま過ごした三十余年のことは憶えているが、はそれ以前のことをあまり覚えていない。自分がどこでどう死んだのかはおぼろげに。けれど、その次の記憶は瀞霊廷でのものなのだ。
だから、つい先日に現世で見かけたばかりだと言われても現実味が薄かったし、虚に囚われていたという記憶があるはずもない。二人の認識の齟齬の最大点はそこだったが、時間のずれなど、かの偉大なる神を前にすれば問うに及ばない問題なのだろうというのもまた共通認識だった。
冷酷無比たる蒼焔をに貸し与えてくれた神の慈悲であり、お茶目で少々わかりづらかった気遣いなのだろう。そう思って笑える現実がある。それだけでいいと思っていたし、にとってはそれこそが重要。記憶にない囚われの日々の終焉で、神は笑ったという。同じ世界で生きられると。そのために与えられた奇蹟なのだと無条件に信じられるほどには、は己をあの異世界へといざなった神のことを慕っていた。
次は昼に出かけよう。そう約束したのが前回の訪問時。その二日後を指定されていたのは、きっと知盛の仕事の都合だろうとは勝手に判断していた。瀞霊廷に暮らす者の常識として、にとって死神は非常に忙しい不規則勤務の代名詞だ。たとえ知盛が主に瀞霊廷内を勤務先とする救護部隊の下級の職に就いているとしても、定期的な休みなどとれるはずもないだろうと解釈していたことを、間違っているとは思わない。
誘われた際、その提案を嬉しく思うと同時にいったいどうしたのかと感じたのも事実。ゆえに何か思惑があるのかと素直に問うたのに、知盛は「なんとなく」としか答えない。それが何かを隠しての答えなのか本気で特に根拠のない誘いなのかを判別することはできなかったが、生前は立場と世間通念ゆえに思いつくことさえできなかったいわゆるデートの誘いに、そんなことはどうでもよくなるのが乙女心というもの。
うきうきと着物を選び、髪を念入りに梳く。仕事とは趣の違う化粧をしようかとも考えたが、あまり得意ではないのでいつも以上に丁寧に、それからせめてものあがきとして口紅を新調しておく。そうして訪れを出迎えれば、当然のように知盛は気づいて「良い色だ」と笑って口元を指先でからかうように撫ぜるのだ。
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