朔夜のうさぎは夢を見る

とこしえにも似たるもの

 二人が共に聞き知っている声の主は、四番隊の第七席。元より人の良い顔立ちにさらに明るい笑顔をいっぱいに溢れさせて、大きく手を振りながら駆けてくる。
「目を、覚ましましたよー!」
 息を弾ませ、何もない廊下でつんのめりそうになりながら走る姿は実に危なっかしいが、とぎれとぎれに繋げられた言葉に、すべての心配はどこかに投げ捨てられる。
 霊圧を探ることが癖になっていればこそ、逆に霊圧の薄い相手の様子は遠くからでは探れないのだという当然の事実が、どこか遠い現実になってしまうのが死神としての悪癖だった。告げられた言葉の意味を考え、つい反射的に霊圧を探ろうとして失敗し、日番谷と知盛は揃って目を見開きながら相手を凝視してしまう。
「早く行ってあげてください」
 逡巡する時間さえ、きっと知盛には惜しくて仕方がないだろうに、思考回路がついていかないのだろう。霊圧を探るまでもなく、すぐ隣で動揺し、混乱し、うっかり泣き出してしまうのではないかと心配になるぐらい脆く湿り気を帯びる気配を日番谷が振り仰ぐのと、二人の許に辿り着いた山田花太郎が知盛の袖をぐいと引っ張るのは同時。


 サヤ、と。呟きかけて口を噤んだ己のことを、よくやったと日番谷は内心で褒めちぎる。ちょうど息を飲み込んだ瞬間に耳朶を打った低い声が紡いだのは、違う音。
「――
 噛み締めるように、恐れるように。真綿でくるむようにそっとそっと、何よりも大切に愛しげに。声音ひとつにここまで思いを篭められるものかと、双眼を見開きたくなる呼びかけ。日番谷はしょうがないなと苦笑を刷いて、知盛の腰のあたりをばしんと叩く。その声を、自分達に聞かせてどうするというのだ。
「あんたが行かなくて、どうするんだ?」
「そうですよ! あの人、開口一番にさんのこと呼んで――」
 畳みかける花太郎の言葉を最後まで聞くことなく、知盛は身を翻してあっという間に廊下を駆けていってしまった。急いた足取りであるくせに、先の花太郎が駆けていた姿よりもよほど危なげはなく、どこか洗練された所作であるのだから、まったくもって不可思議である。


 なんとなくその後姿を見送り、そのまま花太郎と目を見合わせてどちらからともなく笑いあい、日番谷は欄干に背を預けた。
「あーあ。言い損ねちまった」
「あ、すみません。お話中でしたよね」
「いや、構わねぇよ。これで遠慮されてたら、俺が俺を許せない」
 心底申し訳なさそうに謝罪を向けられ、日番谷は穏やかに否定の言葉を返した。別に、謝ってほしかったわけでもなく、花太郎の行動を咎めたわけでもない。なんだかくすぐったい内心を持て余して、何か口にしたかっただけなのだ。


 あの日、容赦ない始解でもって敵を蹴散らした面影を微塵も見せず、眦を薄っすら濡らして意識を手放した後、サヤはずっと眠り続けていた。入院させるほどの傷を負ってはいないが、急激に消耗した霊力の回復のために眠っているだけだとの診断を下し、早々に彼女を綜合救護詰所の個室に隔離したのは卯ノ花の判断。
 混乱の中での異常事態は、そのままうやむやにしてしまいやすいのだ。良くも悪くも。よって、卯ノ花のそれは、医療従事者としての判断であると同時に、長い年月を隊長として過ごしている経験からくる実に怜悧な政治判断であった。
 因果を明確にするまで、あれほどの破壊力を見せつけたサヤを野放しにすることはできない。かといって十二番隊に引き渡すには躊躇いを覚えるし、一般の患者と同等の扱いをするには不安が残る。そして何より、ただいたずらに力を求めて自己犠牲を強いることを良しとするには、間近なところで優しすぎる事例を見過ぎてしまった。
 噂を聞きつけた十二番隊隊長から、原因調査に協力しようとの申し出が早々にあったらしいが、にべなく跳ね返したという話を日番谷は知盛から聞いている。
 そもそもの通院のきっかけとなった傷口は、どうやらこの騒ぎの中で原因となった斬魄刀が倒されたのか、単なる掻き傷が残る程度に回復していたため、鬼道やらによる特殊な治療は不要。その上で、今はまだ何も話さなくて構わないからと、そう穏やかに微笑み、サヤの診療を知盛に担当させたというのだから、懐の深さには感服するばかりである。


「日番谷隊長は、行かれないんですか?」
「馬に蹴られてこいっていうのか?」
 穏やかな沈黙は間抜けな会話で打ち破られ、そのまま間の抜けた「あ、そうですよねぇ」という同意によって再び沈黙に満たされる。
 結局、彼と彼女の関係性など知らないが、少なくとも生前からの強い強い願いによって、死してなお断ち切られなかったほどに深い絆であることは確か。ようやく彼らが彼ら自身として再会する場面に居座れるほど、日番谷は無神経ではない。
「また出直すさ。お前も、そろそろ隊務に戻れよ」
「はい。お疲れ様です」
 声音さえもにこにこと微笑んでいる花太郎の見送りを背に、羽織を翻して廊下を歩きながら、日番谷はふと思い立って遠回りをしてみることにした。
 気配を殺し、足音を殺し、霊圧も完全に閉ざしてやがて辿り着いたのは、無防備にも扉が開け放たれている病室。この一角は個室が並ぶエリアであるため、貴族やら隊長格といった面々とその見舞いの客しか基本的に訪れないが、無人というわけではないのだ。
 せっかくだから、きっと戸を閉めておいてやるのが気遣いというものだろう。殺せる限り気配を殺し、足音など立てずに引き戸に手をかける際にちらと視界に入ったのは、男に縋りついて泣いているらしい娘の細い指先と、あやすように動く優しい腕の軌跡。
 ああやはり、立ち会わなかったのは正解だったし、戸は閉めるべきだった。
 なんだか誇らしくあたたかな思いに満たされて、日番谷は満ちる穏やかな空気を封じ込めるように閉めた戸に面会謝絶の札をかけてから、軽やかな足取りでその場を後にした。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。