朔夜のうさぎは夢を見る

遠い残照

 刀の扱いがそれなりに板についてきたと、そう嘯いていたのはあの初秋の夜の気まぐれというわけではなかったらしい。枕にされてより幾日か。微妙な変化を少しずつ飲み込みながら生活していたは、そしてある日唐突に、一頭の美しき白馬と引きあわされた。
 厩の存在は知っていたが、女房勤めをする中では無縁の場所である。よって、にとって見知っている馬といえば、かつて寺までやってくるのに愛用していた漆黒の馬と、もう数頭のみ。いざ赴いてみれば数頭などという規模ではないとんでもない厩だったわけだが、いずれにせよ、知盛が濃色の毛並みを持つ馬以外を所有していることなど、知りもしなかったのである。
「軍場に立つと言うのなら、馬は自在に操れねば、な」
 鍛錬にと思って狩衣に着替えたばかりだから、多少の緩衝材にはなっているだろうが、娘と厩というあまりにも場違いな組み合わせに、厩番のちらちらと向けられる視線が痛い。だが、それ以上には目の前に立つ美しき獣に圧倒されていた。
「これは、俺の持つ中でも気位の高い姫君でな」
 言ってくつくつと笑いながら指を伸ばし、穏やかに鼻筋を撫でる所作は実に慣れている。対する白馬も知盛には心を許しているのか、つんとそっぽを向いていた大きな瞳が、やわらかく細められて巡らされる。
「扱いこなしてみせろ……。生半な乗り手はことごとく振り落とすが、反面、一度認められればよき助けとなろう」
 言葉通り、恐らくはとてつもなく個性的な馬なのだろう。他の馬が柵で大雑把に仕切られた中に二、三頭ずつ入れられているのに対し、この白馬だけは一頭で一角分の場所を独占している。そのような特別扱いは、知盛が特に愛用している黒馬だけなのに。


 疑問点があれば聞け。馬術は、とりあえずこいつに触れられるようになってからだな。そう言い置いて、知盛は厩番に何事かを言いつけてからさっさと邸に戻ってしまった。
 懇切丁寧に、一から十まで手取り足とり物事を教えるのではなく、とりあえず実戦第一というのが知盛の物事を教える際の姿勢であるらしいことは学んだ。示された課題をこなして、そこではじめて次に進める。裏を返せば、とにかくまずはこの美しき馬に気安く触れられるようにならないと、何も教えてもらえないということだ。
 恐る恐る指を伸ばせば、鼻息も荒く、つんとそっぽを向かれてしまう。あからさまな拒絶の姿勢にうっかり眩暈を覚えるが、こんな程度でめげてはいられない。
「あの、胡蝶殿」
「はい?」
 何をどう説明されたものか、厩番に名を呼ばれて振り返れば、困ったような同情するような、実に微妙な微笑みがを待ち構えていた。
「馬の世話やら扱い方やらについて、お教えするようにと申し付かりました。とにかく、やってはならないことをいくつかお教えしますので、そいつに触れられるようになるまで、こちらに通ってください」
 はまだ身分の違いというものをいまいち体感できずにいるため構わないのだが、笑みの奥に緊張を隠しきれていない彼は、どれほどの葛藤を抱えているのだろうか。通り名を知られているということは、立場を知られたということ。主付きの女房に厩で馬の扱いを教える日が来るなどと、彼はこれまで、予想だにしたこともなかっただろう。
「……お世話をおかけします」
 それでも、にはこの未知の分野の課題を攻略するために手助けが必要であり、彼の存在は大いにありがたい。できるだけ良い生徒であろうと心に誓いながら一杯の感謝を篭めて深く腰を折れば、早速、今にも泣き出しそうな声で「頭など下げないでください!」と困らせてしまったのであるが。


 さて、にとって馬の存在は、牧場でポニーに乗った幼い記憶と、知盛の操る黒馬に何度か乗せてもらった経験があるという程度のものである。厩番の教えをじっくり噛み締めつつ、まずはこの気難しい姫君とどうお近づきになるかを考えながら日々を過ごしているのだが、なかなかに攻略は難しい。
 女に、しかも主付きの女房に馬の世話をさせるということは厩番にとってどうにも克服しがたい難題だったらしいのだが、折衝を重ねた結果、毛並みの手入れで妥協してもらうことに成功した。世話を焼かれる上で触れられることは、彼女にとって別段大きな問題ではないらしい。体を洗われ、毛を梳かれる間は大人しくしているのだが、あくまであさっての方向を見つめている視線が雄弁に物語るのは拒絶。お前など知らない、お前になど、心を許しはしないのだと。
 剣の鍛錬の時間を減らし、その分を厩で過ごしていることはもちろん知盛も知っている。けっして暇ではないのだろうに、ふらりと様子を見にきては繋がれている馬達の様子を見て歩く表情は優しい。
 動物に好かれる人間に真の悪人はいないというが、なんだか身近なところでその実例を目の当たりにしているようで、はどうにもくすぐったく思う。どんなにひねくれた言動が多くとも、言葉が足らずとも、その根幹をなす善人ぶりは、隠しても隠し切れないのだろう。馬達も嬉しそうに知盛を迎えているし、それはにずっとそっけないままの白馬も同じ。
 そして、その光景を眺め続けて、やがては思い至る。なるほど、この馬もあの主の奥底に潜む危うさと優しさを心の底から愛している、自分の同胞なのだと。


 馬は厩に繋がれているままでは脚が鈍る。時には運動が必要とのことで敷地内を歩かせたり、数頭ずつ順に町外れまで走らせに連れて行っていることは知っていた。乗りこなすことなど夢のまた夢という状態のがついていったところで足手纏いにしかならないことはわかっていた。だが、それでもとなんとか頼み込み、話を聞きつけた知盛の愛馬に相乗りさせてもらって赴いた先で、水を飲んで一息入れることにしたらしい白馬に近づいてそっと語りかける。
「わたしも、知盛殿が大事なのよ」
 視線の先には、野原をのびのびと駆け回る漆黒の馬と、それを穏やかに見やっている主のくつろいだ背中。見つめる先が同じであることを横目でちらと確認し、は続ける。
「あの方と共にあるために、わたしにはあなたが必要なの」
 だって、“鞘”であるためには、彼の存在が何よりも危ぶまれる軍場にこそついていけることが必須。そして、そこに赴くためには彼女が必要なのだと、他ならぬ彼こそがそうに告げたのだ。
「お願い、わたしを助けて。あなたの助けを、わたしはきっと、あの方を守ることへと繋げてみせるから」
 向き直って真摯に乞えば、白馬が首を巡らせ、低く嘶いてそっと鼻筋を擦りつけてきた。肩口にやわらかく押し当てられたぬくもりに、はようやく彼女に心を開いてもらえたのだと悟り、「ありがとう」と囁いて美しき馬首を抱きしめる。


 騎乗者としての技巧でもなく、どうにか振り返らせようとする対抗心でもなく、彼女はの偽らぬ願いにこそ応えてくれた。彼女と願いを共にし、そのための同胞であろうという呼びかけにこそ応えてくれた。だから、きっと自分達はとても良い関係を築いていける。そう確信を抱いて身を起こせば、いつの間に距離を縮めていたのか、すぐ傍でおかしげに自分達を見やっていた知盛が唇を綻ばせる。
「白陰」
「え?」
「それの、名だ」
 告げて振り返った先には、黒馬が静かに佇んで主の肩に額を擦りよせている。
「これは、黒陽という。……対なる馬の片割れをお前に託すと、その意味を……違えるな、よ?」
 穏やかに、やわらかに。振り返りざまに耳のあたりを撫ぜてやり、そのまま流された視線がいたずらげに、優しく笑う。
「ついでだ。乗り方を教えてやるから、帰りはひとりで捌いてみろ」
 なぜか上機嫌な調子でさっさと話を進めて、知盛はひらりと黒馬の背に身を躍らせる。唐突な話題の変遷に置いていかれ、おろおろと視線をさまよわせてしまったを促すように、白馬が衣の袖をくわえて、引く。
「乗ってもいいの?」
 振り返り、思わず問うてしまったのは致し方あるまい。これまではその身に触れるだけで精一杯だったというのに、今の彼女は問いかけに対して鼻を鳴らして肯定を示す。


 態度の変化に驚いて目を見開き、そして改めて、白馬が抱く主への思いの深さを確信する。こうまでも世界に祝されている主の稀有な在り方を確信し、それに気づかずに孤高の道ばかりを選ぼうとする主のかなしく優しく強き在り方を、思い知る。
「……ありがとう。きっと、きっと叶えましょうね」
 わたしの祈りを。あなたの願いを。そっとそっと、ひそやかに囁いた言葉にぱたりと尾が振られるのが見える。
 盟約は結ばれた。瞬き一つで表情を引き締め、軽やかなとはまだ言えない、けれどこの先の技術の上達を彷彿とさせるしなやかな動きで馬上に飛び乗ったを見やり、知盛は満足げに双眼を細める。
 その視線には気付かないまま、常とは全く違う視点を確認するように凛と顔を上げている姿は、あらかじめ予想していた彩り以上に美しく、心地よい満足感を知盛に齎した。やがて、阿鼻叫喚の響き渡るこの世の地獄の中で迎えるやもしれぬ最期の瞬間にも、この光景ならば曇ることなく、濁ることなく、自身の視界の中で燦然と光を放つことだろう。
 脳裏をよぎった喩えは声として刻まず、そっと瞬いて胸の奥に沈める。ようやく視点の高さに慣れたのか、そのまま顔を向けてきたからさりげなく視線を外し、知盛は「行くぞ」と言って馬首を巡らせる。
 そうして徐々に傾きはじめた紅い陽に向かって進む道を、背中を、それぞれに思うところを隠して見つめていることを共有するには、二人の距離と速度は、まだ届かなかったのだが。




(お前が俺の鞘足りたいというのなら、どうか、どうか最後まで美しく)
(あまりにも凄惨で凄艶なあの地獄絵図の中で、どうか、俺を彩る黒白の献花となってくれ)

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。