朔夜のうさぎは夢を見る

夢と知りせば

 長い、永い――恒久を願う、夢を見ている。


 何が始まりで何が終わりなのか。それを定義するのはすべて人の業だと嘯いたのは、神の神なる理不尽さを穏やかに語る住職だった。
 何が罪で、何が罰なのか。
 何を善しとし、何を悪しとするのか。
 一体どの理をもって世界を断じるのか。
 すべて寄る辺によって基準は揺らぎ、判断は変じる。ゆえ、神は枠を定めず、理によってのみ世界を知る。矛盾さえも包み込み、世界の世界たる姿を見つめ続ける。あるべき流れは揺らぐもの。その本流を乱すことは厭い、自らの関わる流れにおいては理によってあるいは罪と罰とを示すだろう。だが、それ以外のすべてはただ受け入れ、見守るだけ。それが神仏の在り方なのだと、彼は語った。
 なるほど、確かにそのとおりなのだろう。我が身に降りかかったすべてを思い返し、は静かに得心する。かくも理不尽な、暴力とも呼べるだろうこの事象は、人の手には余りあると称しても言葉が足りない。


 駆けて、翔けて懸けて。
 気づけば落とされた先。手にしたのは求めていた場所。安息の証左。
 失うわけにはいかない。喪わないためには何だってできる。このなりふり構わぬ、突き詰めれば一切へと向かいかねない破壊衝動にも似た激情は、文字通り世界を支える神が抱いてはならないもの。
 人は人ゆえにその手の届く範囲が限られ、その狭さと矮小さゆえに思いの強さと深さを赦される。ならば自分は人であって良かったと、そう、素直に感じられる。
 受け入れることを覚えるほどには時間を経て、想いを向けるほどには世界に馴染んだ。こここそはおわりの場所。だから、ここでこの理不尽は道理となり、そしてはじまった。この世界の時間を魂に刻み、肉体に現し、いずれ老い、朽ちて果ててこの世界にこそ還る。すべては、かの存在のあるこの世界で。


 囚われたのはいつからで、どちらが先で、そしていつまで続くのか。
 埒の明かない思考の螺旋に無理やり終止符を打ち、いつのまにか肺腑に溜まり込んでいた息を細く長く吐き出せば、紫紺の瞳がわずかに和み、張り詰めていた声がそっとやわらぐ。
「だから、羽衣を纏っても、天には往くな」
 秘めるように、小さく小さく囁かれた声は、優しかった。
「地上に……俺の手の届くところに、在り続けてはもらえまいか?」
 頬にあたっていた指がゆるりと涙の跡を辿り、顔にかかっていた横髪を耳の後ろへと撫でつける。まだ微かに不安を滲ませるくせに、満足そうな、嬉しそうなその仕草は、ひねくれた普段を霞ませるほどに素直であどけない。
 その要請が何を意味しているのかを、はきと推し量る術はない。ただ、こうして己を求めてくれる主がいるこの世界を、自分は決して振り払わないだろうことだけを知っている。
「許される限り、ここで生きると申し上げました」
 お前を鞘に、俺の傍に。そう刃が望む限り、鞘は朽ちるまで刃と共にある。その決断を、最後まで貫きたいとは欲する。たとえこの世界がにとって“幻想”なのだとしても、最期まで、彼の傍らで。
「大体、纏った覚えもない羽衣を持っておいでになられても、使い方がわかりません」
「なに、天女の物は、天女に返すべきだと思ってな」
 湿った空気は好きではない。気休めに、息を抜きに知盛が自分の許をおとなうことも知っている。だから、は己の決意と覚悟を改めて告げると共に、意識して紡ぐ軽やかな声に、言葉遊びを載せる。
 混ぜ返す意図は過たず伝わったのだろう。今度ははっきりと笑いを滲ませた声が、投げかけられた言葉に応えて軽やかに嘯く。言いながら近づいた唇が眦に残っていた涙の気配を拭い去り、うなじを辿った指が背筋を伝う。
 肩に額を乗せ、ひそやかに吐息がこぼされる。視線を流した先、細い銀糸の隙間に垣間見えた表情の思わぬ穏やかさに目を瞬かせて。娘もまたそっと瞳を閉ざし、短い髪を梳く動作を再開させた。


(はじまりとおわりを定義するのが人の業であるのなら、夢と現もそうでしょう)
(こうして生きる彼を、私を、誰かの夢だなどと言わせはしない)


(たとえこれが、現に残された私という抜け殻の見続ける、救いようのない悪夢だとしても、)
(私はこの現実こそが生きる世界だと、そう決めたのだから)

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。