朔夜のうさぎは夢を見る

夢の中へと

 倒れかけているのだと、それを自覚して膝を落とすことを選んだ。派手な音と共に刃が船底に突き刺さり、かろうじて上体を支えるだけで知盛は俯いた頭を持ち上げられない。もはやろくに光を取り入れない視野は薄暗く、歪みに歪んで世界の有様を正しく伝えようともしない。
「私達の勝ちだよ。教えて、還内府とさんはどこ?」
 私は、あの二人を助けなきゃいけないの。声にならない言葉を聴いたのは、きっと今の状態のせいだろう。肉体という枷から解き放たれ、身に宿る五行が龍脈に還ろうとしている、狭間の時間。
 博愛に満ちているはずの白龍の神子には、どうやら博愛を向けるべき相手と向ける必要のない相手が存在するらしい。自分は後者で、彼らは前者。そのことに別にどうこうといった感慨は湧かなかったが、かくな娘に神力を与えて、それを自在に操る許しを与えて、さらには神子の願いなれば何もかもが世界の選択と嘯く神の存在には嫌悪感と侮蔑が湧きおこる。
 ならば俺は、お前ごときの博愛の対象に選ばれなくて何よりだった。ヒトの在り方と神の在り方を混同し、それを是とするお前達となど、俺は永劫同じ道を歩けたはずもない。自分達は、なるべくして敵味方であったのだろう。


 どちらが正しかったかに興味はなかったし、自分達が正しかったとは思っていない。それでも、彼らが正しかったというのなら、自分にとってはこの世界そのものが間違いだったとさえ思いながら、知盛は嗤う。
「本当に『ご存じない』のか? ……“神子”殿」
 握りしめた柄は、今日の戦闘で初めて振るった刃のもの。並みの小太刀よりは細身で、それでもなお感嘆の息がこぼれるほどの逸品。上体を支えるために使っていたそこから、白昼夢よりも淡い情景が流れ込んでは消えていく。
「御身はご存じのはずだ。俺の敗北も、平家の終焉の形も、“還内府”の行き先も」
 なるほど、お前はこの夢ゆえに、この世界を夢か現かと泣いていた。悔しいが、認めよう。お前が愛した“平知盛“は、確かに俺よりもお前を惹きつけただろう。かくないきさつ、かくな慈しみ、かくな覚悟の美しさ。お前達の絆を引き裂いた馬鹿げた運命とやらをこそ、俺もまた、恨み、呪おう。


 ままならぬ首を持ち上げ、ひたと見据えればたじろぎながらも神子はまなじりを吊り上げる。
「どこにいるのか、聞いているの!」
「……“黄泉より還りし平重盛”なぞ、そも、存在もせぬ」
 助けられなかったから、やり直す。それはいとも単純で明快で、何より蠱惑的な選択肢だ。あるいは人は、それを救済と呼ぶだろう。だが、知盛は思う。その選択と、我が父の選択と、いったい両者はどう違うのか、と。
「有川を助けたいなら、もう行け……。姫は既に、“今度こそ”お前の手の届かぬ場所におられるさ」
 紡いだ名によって引き起こされた当惑と混乱の喧噪など、知ったことではない。はっと目を見開き、そのまま視線だけで呪殺ができそうなほどの形相で睨みつけてきた神子を鼻で嗤い、声に力を篭める。
「驕るなよ、小娘。お前なぞよりよほど有川や姫の方が、軍場に在るということをわかっていた」
 溜め息をひとつ。血を吐きだすための咳をみっつ。
 もう呼吸がもたない。最後になって見知り、直観した世界の絡操りゆえに、当初から皆無だったこうして命が零れていくことへの未練は完全に失われているが。


「お前のようなモノに殺された数多の同胞が、俺はあまりに、哀れで仕方ない」
「あなたに――あなたに、何がわかるって言うのよッ!?」
「わかりたくもないな」
 鬼神と、その言葉が脳裏をよぎった。たとえるのならば、大黒天女がふさわしかろう。勝利に酔い、そして全知全能、万能の存在にでもなったつもりだったか。だとすればそれは誤りだと思い知れ。俺も、アレも、お前の齎す独りよがりな“救済”なぞ、微塵も求めてはいない。
「お前を蔑み、けれど、憐れみもしようよ……誰も、お前の誤りを糾弾する者がいなかったのだろう、その不運を」
 立ち上がる。血の足りない全身が悲鳴を上げるが、これで最後だと宥めすかす。絶望と憤怒と憎悪と混乱と、そして確かな後悔と。不自由な視界が捉えた神子の貌は、年齢不相応という言葉ですら決して追いつかない。そして、将臣に対峙していたのと違って、知盛には彼女を傷つけることを躊躇う理由がない。
「鎌倉殿の許へ、行け。……有川を、助けたいと。その思いばかりは、俺もまた同意しよう」
 死なせたくはない。この娘の驕りによってだろうがなんだろうが、生きられるなら生き延びさせたい。自分達のように生きることに対して破綻しなかった、それが、あの男の強さであり美しさであり、穢れぬ覚悟であったのだから。


 床に突き刺していた小太刀をかろうじて引き抜き、けれど持ち上げられないから引きずりながら後退する。一歩、二歩、三歩。傍目にはよろめいているように見えただろう。自身にとっても、意思を持って動いているという感覚は薄い。
 与えられた情報をもとに、困惑の只中で繰り広げられる遣り取りから離れて、こちらを見詰めているのは鬼の青い瞳と、熊野別当の苦り切った紅い瞳。
 仰いだ空は蒼かった。刀から流れ込んできた夢にも出てきた、薄く蒼い、突き抜けるような晴天。
「いずれ、お前の名を、教えてくれ――
 決して好きにはなれない女だったが、彼女によって、最期に紡ぎたいと思っていた音を口にできた。それは僥倖だった。呼びかけが思いがけず甘い響きを湛えていて、失恋を認めたくせに諦めはつかなかったかと、仄かに苦笑する。
 船の淵にて力を抜いた。当然のように背から海へと落ちるのを、慌てて追ってきたいくつもの視線と手指が追いかけるが、間に合うはずもない。蒼に包まれ、蒼に沈み、蒼に溶け。霧散する意識は、そしていつしか、終わりを知らない夢の中へと。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。