最後の意地
その報せが飛び込んできたのは、夜明けを間近に控えた暁闇のわだかまる頃のことだった。この世界に灯台などという便利なものは存在していない。暗く、深く、闇に満ちた海を必死に渡って伝令を運んでくれたことをねぎらえば、その兵はとんでもないと首を振り、むしろ興奮した様子で状況を語る。
「厳島の社が我らの行く先を示し、瀬戸内の海神達が、途中よりは案内を」
「海神?」
「詳しくは存じ上げませんが、恐らく。美しき、水の竜であらせられました」
恍惚とした表情は、自分のまみえた奇跡を吉兆と捉えてのものだろう。あえて否定をする必要もないし理由もないので、将臣はそのまま「良かったな」とわらっておく。
もはや残り少ない仲間達。この先にどのような結末が待っていようと、喪われずにすむのなら、それに越したことはない。
「けど、思ったより早かったな。彦島の方、少し増援をやっとくか?」
そして、すぐさま思考を切り替えて振り向いた先には、すっかり武具を身につけて臨戦態勢にある平家の鬼神。
「必要なかろう……それにてこちらの戦線が想定よりも早く崩れては、本末転倒だ」
手の内で刃の状態を丁寧に確かめていた視線が、持ち上げられて淡々と状況判断を告げる。将臣も随分と将として鍛えられはしたが、やはり圧倒的に経験が足りていない。こうして想定外の状況に陥った場合には、必ず知盛や忠度といった歴戦の智将の意見を仰ぐことにしている。
指摘はもっとも。それに納得した将臣は、そのまま控えていた兵に向きなおって全軍への伝令を命じる。
「作戦通り、こっちも打って出るぞ。兵達はもう動けるか?」
「報せは走らせております」
「じゃあ大丈夫だな。支度の整ったやつから順次、船へ。その後は、各軍の将の指示に従ってくれ」
「御意」
朝もやの中に消えていく背中は、あっという間に見えなくなる。恐らく、これから船で陣形を展開する頃には対岸で出立準備を進めていたという源氏軍も態勢を整えるだろう。そうなる前に、何としても短期決戦に持ち込みたい。
がしゃり、と。金属のこすれあう重い音に、砂利を踏みしめる音が重なる。曖昧にぼやけていたけだるげな空気が、焔を彷彿とさせる熱く激しいものへと変質していく様子を、背中で感じ取っている。
「惑うなよ」
隣に並び、言葉が放たれる。
「惑えば、喰われる。……お前は、『生きる』のだろう?」
「当たり前だ」
はきと返した震える声には、いっそ穏やかな笑声が与えられる。
ああ、本当にお前は性質が悪い。どうして、どうしてこの局面になって、そんな一面を見せつける。
知っていた、知っていたとも。お前は酷薄に見えて実は意外に優しくて、不器用で、ひねくれているだけで。知っていたとも。お前は、一度として俺を“兄”として扱いはしなかった。俺はいつだって、手のかかるやんちゃな“末弟”だった。
「俺も、生きる。お前と俺とでは……“生き方”の枠が、異なるだけだ」
そのことも知っていた。俺は這ってでも呼吸を保つことを『生きる』と定義し、お前は死をもってでもその在り方を貫くことを『生きる』と定義していた。これだけは、どれだけ頑張っても埋めようのなかった、お前と俺との根本の違いだった。
朝日が昇る。踏み出し、将臣を追い抜いた知盛の背中が、金色にきらめく朝もやの中に沈む。
「揺らぐなよ、“還内府”殿。俺は、お前が誤っていると、そう思ったことは一度もなかったぜ?」
言いながら振り返った瞳は穏やかに微笑み、口元は人を喰ったようににやりと吊り上げられる。あべこべで矛盾した、それこそは将臣の見慣れていたはずの笑みだったのだと、いまさらのように思い知って。
「最後のひと花、派手に咲かせようではないか」
誘うように視線を前へと投げられて、将臣は歯を食いしばって精一杯の不敵な笑みを形作る。
「当たり前だ。後から俺より戦功が少なかったって、文句を言うなよ?」
「言う必要もない」
もう、こうして軽口を叩きあうこともないだろう。彼がこの最後の戦場でどう『生きる』かは、嫌というほど予想がついている。それゆえに、彼は後顧の憂いをすべて切り捨てて、狂気の底を背に、崩壊の断崖絶壁の淵で笑っているのだ。
湊に辿り着けば、既に多くの船が出港した後であり、将臣達の乗りこむべき船もまた既に準備が整えられていた。
いつだって、気づけばずっと隣にいた男が、去っていく。ぽっかりと何かが抜け落ちてしまった感覚に襲いくる眩暈を堪えながら、ぼろぼろになった胸の中から、どうしようもない思いを削ぎ落として振り払って、残されたものを明け渡す。
「俺、お前に会えて、良かった」
苦しかった。傷もたくさん残された。この男に出会わなければ、あのように凄惨で清廉な関係性があるなどと知らずにすんだし、死ぬことで生きる“生き方”に否定を突きつけられない己を知ることもなかった。けれど、そのすべてをひっくるめて、将臣は知盛が好きだった。
軽やかな動作で船に飛び乗り、揺れに対して全く均衡を崩さないまま出港を指示する。動き出した船の上で、堂々と振り返る。
「この上なく……楽しかったぜ、――有川」
晴れやかな笑顔は、初めて目にするもの。お前、こういう素直な顔もできたんじゃないかと、反射的に脳裏をよぎった憎まれ口は呑みこんでおく。
だって、その姿はあまりにも美しかった。千年の時を経てもなお高らかに謡われるあの美しき文言にて彩られるにふさわしい、平家一門が誇りを体現した姿。言い置いてもはや未練も何もなく進行方向へと向きなおった背中をしばし見送って、将臣もまた自分に割り当てられた船に乗る。
自分とて、平家一門の名を負う将。知盛とは違う“生き方”を望むとはいえ、一門の名を辱めることのない戦いを。その心は同じだと、願っている。
Fin.
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