最後の意地
その残酷な光景には、悲鳴ではなく感嘆の吐息こそが似合いだった。夜闇を振り払うようにして燃え盛る燈明と、それによって闇の中に浮かび上がる朱塗りの社殿。星明りと月明かりとを浴びながら、大鳥居の向こうには海原に立つ一対の人影。
立ち尽くしていた影が一歩を詰め、舞い終わった影が振り返る。振り返り、刀を左手に預けて右の指を差し伸べれば、それを左手が受け取って抱き寄せ、瞬時にきらめいた銀光が流星のように闇を奔る。
それは、美しく儚く残酷で、けれどどこまでも甘やかな、鋼の抱擁。
唇を噛み、眉間に力を篭め、全身が震えるほどに両手を握りしめた上で将臣はすべてを焼き付ける。決して後世に語られることのない、歴史の潮に巻き込まれた泡沫をせめては記憶に留めるのだと。
還内府としての、有川将臣としての。最後の意地でもあった。
時間を忘れたようにひしと細い体躯を掻き抱いたまま、重なり合った影はしばらく微動だにもしなかった。寄せては返す波の音が、優しい。だが、こうしている間にも徐々に、確実に、影が水に呑まれつつあるのは見てとれていた。穢すわけにはいかず、打ち崩すことは躊躇われ、それでもここで影を喪うこともまた憚られて。もう少し、あとほんの少しだけ待って、それから迎えにいこう。そう己に言い聞かせてじっと視線を向けていたのだが、影はあれで意外にも、現実に立ち戻るのが早かった。
ゆらりと、上体がわずかに沈んで、そしてシルエットは何かを横抱きにしてさらに沖へと進む。よもやこのまま海の底へ向かう気かと慌てて足を踏み出すが、それが杞憂であったこともまたすぐに知れる。
大鳥居からしばらく進んだあたりで足を止めた影の面前に、海面を押し上げて姿を現したのは巨大な水柱。水しぶきを散らして徐々に姿を整える様子を息を呑んで見つめながら、将臣はぼんやり、やはりここは異世界なのだなと、そんなことを思う。
「……海の神か?」
返される答えなどないとわかっていて、それでも声に出してしまったのはそうでもしないと己の存在を確立していられないように思えたからだ。完成されたその姿は、どう見ても神話に思い描いた竜そのもの。絶対的な存在感を振りまく長大な身をくねらせ、薄青い透明な首を折ることで影のすぐ傍にその瞳を持っていく。
その竜が何ものであるかもわからなければ、そこでどんな言葉が交わされたのかもわからない。ただ、ほんのわずかに時間を共有して、影は竜に抱いていたもうひとつの影を引き渡したようだった。やんわりと咥えることで、竜は影を引き取ってそのまま沖へと去ってしまう。
月明かりによって海上に描き出された光の道を往く竜がやがて海中に消えるのを見届けて、影は改めて振り返り、将臣の方へと距離を詰めてきた。その足取りはゆったりとしていながら力強く、ゆらゆらと揺れる掴みどころのない動きでありながら、微塵の隙もない。不調も異変も何もない、それは常の影の在り方。
何を負おうとも、何を抱えようとも、こうしてすべてを呑み下して覆い隠して、だから影のことを誤解する人間が絶えないのだと。わかっていても何もしないのは、影がこの世界を諦めてしまっているからだ。
暗闇にあって相手の纏う色を判じられる距離になった頃、当然ながら影の纏う衣にべったりとついた血の色を認める。表情が判じられるようになって微塵も動かぬ鋼鉄の無表情を認め、鋭い光を放つはずの双眸に無機質な蓋がはめられたことを知る。
「戻るぞ……。我らには、明日がある」
すれ違いざまにそう声を落とし、影は濡れた衣の重みなどまるで気にした様子もなく、ざばざばと水を掻きわける。そのまま辿り着いた平舞台の先の板に手を置いて、軽い動きで海中から体を引き上げた。
「………このこと、どうするんだ?」
世間話でもするかの調子で先ほどまでの圧倒的に神聖な時間を振り払った影に、しかし将臣は"還内府"として忘れてはならない役目を果たす。だが、現実に戻ってきたようでいて、影はどこまでも先の名残りを抱えている。
舞台の先からちらと振り返る。負うは美しき朱塗りの社殿。ゆらゆらと夜闇を侵蝕する橙色の燈明の軍勢に、将臣は戦火を背に立つ平家の鬼神の姿を幻視する。燃え盛るのは、空か、都か、あるいは――船か。
「どうも、こうも。……隠しだてたところで、いずれ知れる……なれば、より美しく伝えることこそが、策謀」
淡々と、平淡な声であまりに残酷な言葉を紡ぎ上げ、影はくつくつと喉を鳴らす。
「兵達はみな、この終焉に酔おう……戦場に舞うこと能わねば、その身を供物として一門が社に捧ぐ。戦姫としては、まこと、理想的な在り方だ」
嘯かれたのは、実に秀逸な戯曲の脚本。無論、それは真実であっただろう。もはや確かめる術は残されていないが、それが真実でなければ、では何が真実なのか。
将臣は彼女の狂気を知っていたが、それが狂気だけではないことも知っているつもりだった。彼女は最後の最後まで、きっと一門のためにと思い定めていたはずだ。かくも切なげに、かくも誇らしげに、彼女に生きる意味を与えたという存在の願いを紡いでいたのだから。
耳鳴りがやまないと、そう思った。静寂が完璧に過ぎる。こんなにも静かでは、聞きたくもない声までが聞こえてきそうだ。たとえば、誰かの声なき慟哭。誰かの声なき悲嘆。誰かが誰かを、呼び続ける声。
潮騒は世界のすすり泣きのようで、燈明は迷わぬよう灯された送り火のようだった。
今夜がきっと最後なのに。きっと、明日あたりには終焉への幕が切って落とされるのに。どうして、彼は最後まで自分に名残惜しさというものを植え付けて、彼自身は何もかもを切り捨てて進んでしまうのだろう。引き止める術などないのに、理由もないのに、残るよう命じなくてはならないのに。将臣は影に縋り付いて泣きたくなる。
促すように黙って手を差し伸べられ、助けを借りて海中から身を引き上げる。水に濡れた体は思いのほか重く、舞台の上に無様に転がった様子には微塵の気遣いも感慨もみせずに置き去りにされていた愛刀を取り上げて、影はさっさと足を踏み出している。
「知盛ッ!!」
呼んだとて、応えるはずもない。呼ぶだけで、動けるはずもない。揺るぎない背中をとうとう堪え切れなくなってぐちゃぐちゃに歪んだ視界で必死に追いかけながら、床に拳を押し付けて叫ぶ。決して肯定を返してもらえないと、そのことを確信している悲鳴を、涙混じりに。
「生きることを、願ってくれよ……ッ!!」
最後の枷は打ち砕かれた。鞘を失い、抜き身になった刃はもはや、折れるまでその身をすり減らすことしかできないのだということも、知っていたけれど。
Fin.
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