ぬくもりの気配
しばらくじっとその真意を見透かそうとするかのように視線を据えていた男は、ごく唐突にはたりと瞬いて指をおろした。とたんに支えを失ってふらつくには見向きもせずに、くるりと振り返って躯の山を越えていく。いかにも無造作に、力の抜けてしまった娘を鎧ごと肩に抱えて。
「……新中納言様?」
「刃と、そう言うのなら……。俺がもらい受けても、構わんのだろう?」
降ってくる声には、不機嫌と愉悦とが同じほどに刷かれていた。振り落とされてはかなわないと、思わず反射的に背に支えを求めた指ににやりと口の端を吊り上げる気配はうかがえたが、には知盛の考えがまるで読めない。
「告げる気がないなら、呑んでいればいい」
あっさりと言い放ち、視線は前方に据えたまま。一体いつの間に指示を出していたのか、気づけば周囲には味方の姿さえ見えなくなっていた。屍肉の臭いを嗅ぎつけたのだろう。ギャアギャアと喚く鳥が空から次々に舞い降りてくる中を悠然と進む足取りは、一切乱れようともしない。
「言葉も、思いも、偽りも真実もすべて。お前がそのつもりなら、俺もそのつもりになるだけだ」
「そのつもり、とは」
「どうすると思う?」
いっそ楽しそうに疑問を差し返され、は疲労からか徐々に朦朧としてきた意識の向こうで、必死になって思考回路を動かす。愉しげで、けれど物騒な声だ。彼はこの状況を楽しむつもりでいる。しかも、自身の抱える傷にも似た何かをえぐるような、ぎりぎりの感触で。
思い当たった状況に眉をしかめながら、辿り着くのはあまりにも彼らしい、傍迷惑で傲慢で、漲る自信とそれを裏打ちする軌跡こそが眩しい、ひとつの予感。
「凌駕し、やがては暴くと申されますか」
「今さらおもねったりするなよ? 先に牙を剥いたのは、お前だ」
肯定よりもなお性質の悪い、状況を煽る返答には今度こそ正しく血の気が引いていく己を自覚する。
歓喜と恐怖が身の内でせめぎ合っていた。彼は、やると言ったからには必ずやりとおす人だ。似て非なる彼であっても、きっとそれは同じだろう。なれば自分はこれより先、彼の傍らに置かれるようになる。刃になると、そう宣したのは自身だ。だからこそ、平家において随一と誰もが認める彼がこの珍しき刃を欲すれば、もはや引き留める存在なぞあるまい。同じ刃であるのなら、優れた使い手に託すことこそが正しい使い道なのだ。
「お前に名を与えたもののことも、お前に俺という存在を教え込んだもののことも、今は問うまいよ」
だが、いずれ知れる。言いきる声はひたすらの確信に満ちており、暗い嘲りの色を孕んでいた。その色にこそは恐怖する。彼は“知らないはずのこと”を『知って』いることが多かった。何をどうやって嗅ぎつけるのか、気づけば真理をその手にとって、しげしげと眺めているような人物なのだ。
眩暈がする。疲労からくるそれでもあるし、精神的なそれでもある。血臭と死臭が充満する地獄の中でふと嗅ぎつけた微かな伽羅香に、現が夢へと呑まれていく。
ぬくもりも、声も、鼓動も、香りも。すべてがあの人と同じなのに、どうして彼はあの人ではないのだろう。詰っても仕方のない、詮無い嘆きばかりが渦巻き、降り積もっていく。
積もって、積もって。そしていつしか埋もれて窒息してしまうだろう。それは確かな予感だった。だから、そうなる前に何とかしなくてはならない。けれど、何をどうすればいいのかなど、わかるはずもない。
沈んでいく意識につられて暗く鎖されていく視界の奥で、は蒼焔を幻視する。哀しげに、切なげに、己の身に与えられた加護の象徴でさえある焔が、ゆらゆらと力なく揺れている。まるで、その存在がかき消されんとしているかのように。
無意識に指を伸ばし、縋るようにして触れた何かを握りしめていた。お願いだから、これ以上消えていかないで。もうこれ以上、わたしから何も奪わないで。
触れたものを、ただひしと握りしめることでかけた願いには、宥めるように、寝かしつけるように、背をさするゆったりとしたぬくもりの気配が返された。
Fin.
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