朔夜のうさぎは夢を見る

幸せな錯覚

 呑まれていることはわかっていた。軍場に渦巻く狂気の渦に巻き込まれ、激情に任せてどれほど醜い衝動に身を投じているかを、どこか遠い意識で知覚はできている。ただ、制御することができず、制御するつもりにもならなかっただけで。
 キィン、と。それは場違いなほどに澄み切った音で、切ないほどに美しく洗練された所作で。
「……やめておけ」
 際限なく振るい続けるの刃を受け止めたのは、敵兵の纏う鎧でもなければその血肉であるはずもなく。
「俺を、失望させるな」
 ひどく醒めきった声だった。言葉のままに、半歩先にはこの上ない軽蔑と侮蔑が待っているのだと雄弁に語る、あまりにも冷徹な声。
「害うな……お前の、その美しさを」
 の渾身の一撃を受け止めたのは、男の片手に握られた細身の小太刀。あまりにも鮮やかな格差を見せつけながら、いっそ優美な仕草での刃を払いのける。
 この身は女。男には到底叶わぬ膂力と体力。そこらの男になぞ負けることはないといいきれる覚悟と闘気を誇る、あまりにもらしからぬ在り方。けれどやはり、男には到底叶わぬのだ。


 もはや敵の姿はなかった。はからずも命を救われた形となった幾人かの雑兵が、悲鳴を上げながらまろぶようにして駆けていく。夢から覚めたように呆然と目を見開き、己の周囲に広がる惨状を視界に納めて、はようやく積もり積もった疲労を自覚した。
 膝が震え、指先の感覚はもはや存在しない。けれど、それこそこれ以上の無様な姿を曝すことだけはどうしても許せなくて、必死になって四肢に力を篭める。
「醒めた、か?」
 呑まれる思いは、わからんでもないがな。独り言のようにぽつりと呟いた知盛が、両手に握っていた双太刀を鞘に戻す。そのまま無手に戻った、それでもなお絶大な殺傷能力を誇るだろう篭手を纏った左手がの顎を掬い上げ、残る右手がだらりと垂れ下がった小太刀を取り上げる。その動きを視線で追うことはできるし、唇もわななく。何か、何か言わねば。そう焦る思考回路とはまた別に、冷静な判断能力が過度の疲労ゆえに言うことを聞かなくなっている全身の運動神経の存在を知らしめる。
「お前、何をかくも懼れている」
 掬い上げられることで上向いた視線が、ひたと合わせられる深紫の双眸に射抜かれる。どんなに隠そうとしても、蓋をしても、必ずの心情に辿り着き、抉り出していたあの光。違うのに同じで、同じなのに違う。矛盾して繰り返される禅問答にも似た自意識の渦に、視界が揺らぐのを知る。


 自身の内に答えが見出せないのだから、答えることはできない。ただ、それでも視線を逸らすこともなくひたむきに見つめ返すに何を思ったのか、知盛はゆるりと指を動かして頬を覆う。
「まるで、魔性だな」
 一歩間違えれば喉笛を掻き切ることも可能だろう籠手は、けれどの皮膚に掠り傷ひとつつけることはない。
「戦姫……などという呼称では、追いつかぬ。いったいいずこで、奴らに対してかほどの恨みを抱いたのか」
 やめて、やめて、暴かないで。見透かさないで。引きずり出さないで。
 声にならない訴えは、そして告げるわけにはいかない言葉なのだ。必死に飲み込み、力なく首を振ることでなんとか逃れようと足掻くを、知盛がそうやすやすと逃す道理などないのだけれど。
「戦場に咲く、一輪の花。……重衡あたりなら、そうも譬えようが」
 お前はむしろ、戦場を照らす冷厳たる光。情け容赦なぞ微塵もなく、阿鼻叫喚を余すことなく映し出す。
「月天将と、そう、お前を呼んだのは誰だ?」
 透明な声での問いは、ゆらゆらと物騒な光を瞳の奥に灯していた。それは、自身の手のうちにあるものに手出しをされた時に彼の見せた、あの不機嫌の色にも似たるもの。彼が愛してくれたこの一面は、こうして目の前の男の胸にも何らかの琴線を揺らすものであったらしい。
「……わたしの、ただひとつの刃だった御方です」
 掠れた声で、けれどやはり彼の双眸があまりにもの知るままだから。偽ることになど思いが及ばぬうちに、ただ胸の内で渦巻き続ける苦く切ない郷愁から真理を掬いあげる。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。