幸せな錯覚
穏やかに鎧を見つめる視線に悲しみが滲む瞬間は、いっそ艶やかなほどに鮮やかだった。結局は見ることのなかった、きっと確かに存在したのだろう、彼の辿るかつての未来。
「もちっと健全な方向で機嫌が良くなってくれりゃぁ、文句ねぇんだけど」
「詮無きことにございましょう?」
「まぁな」
言ったぐらいで変わるようなら、今ごろ将臣がこんな表情をする必要はないのだ。淡く苦笑を滲ませた声には、優しく切ない諦めの声音。
「とにかく、そういうことだから」
深呼吸をひとつはさんで気を取り直し、表情を引き締めて将臣はずれてしまった話の筋を元に戻す。
「今回は様子見だな。それで周りの連中を納得させることができたら、今後のことも検討する。これが精一杯の妥協案だ」
「かしこまりまして」
無言にして高らかな訴えは軽やかに黙殺する。どうか、どうか戦場に赴きたいなどと言ってはくれるなと。それが優しさと知っていても、気遣いと知っていても、譲れない一線はどうしたって譲れない。嫣然たる微笑を湛え、年数の差ばかりは覆せないのだと雄弁に訴えながら、はいらえる。
「必ずや、おめがねに叶う働きをしてみせましょう」
きっとあなたが嫌だと言っても、だって彼は、わたしをあの地獄絵図へといざなうはずだから。
奇策と勇猛な戦いぶりとで知られていた還内府の総大将としての初戦は、意外や定石にのっとった古式ゆかしい展開をみせていた。大手を預かる将臣に対し、搦め手を預かる知盛の手勢はごくわずか。いずれも見覚えのある、そしてまるで見知らぬ兵達は、平家でも群を抜いての精鋭ぞろいであるとのことだ。
「さて、戦姫殿?」
矢合わせの音が近い。あと少し進めば、達もまた鞘から白刃を引き抜き、戦闘の只中へと突入することだろう。
「引き返すなら、今が最後の機会……お覚悟は、できておいでか?」
「新中納言様ともあろうお方が、愚問を弄されますか」
厭いはすまい。迷いもしない。躊躇いを踏みしだき、恐れに急き立てられ、微塵の容赦もなく、ただひたすらの哀絶のみを抱えて駆け抜ける。それだけが自分にできることだと、はかつて“彼”に教えられたのだ。
彼はあの彼ではなく、けれどきっとあの彼と同じものを持っているだろうから。遠く、過ぎ去ってしまった幻想を脳裏に描きながら言い返せば、くつくつと喉の奥で転がされる笑い声が耳朶を打つ。
「これはこれは……実に、頼もしいことだ」
微塵の信頼も存在せぬ、それはただ珍しき迷い蝶をしばし観察しようという好奇心の声。同じなのに明らかに違う声に、ざわつく心を必死に押し殺す。
貸し与えられたのは、同じで違う白く美しき牝馬。彼のまたがる黒馬と対を成す、それは名を白陰と。
「では、参ろうか」
いっそのんびりとした風情でかけられた声に、野太い鬨の声が上がる。そうして、平家の軍神とも謳われる男が、戦場に足を踏み入れる。
たとえと彼の関係性が変化しようとも、彼と戦闘の関係性は変化しない。よって、戦場において自分がどう立ち回るべきかを、はほぼ正しく把握している。
「死にたくなければ下がりなさい! 手向かうものには容赦しません!!」
間合いに入り込まないよう気をつけながら死角に回りこみ、敵兵を切り伏せて己が存在を知らしめる。声は高らかに。胸を張り、刃を掲げ、殺気を叩きつけて魅せつける。
「わたしを倒せる自信のあるものはかかってきなさい!!」
あえての挑発の文句に乗って走りこんできた哀れな生贄を、冷徹に切り捨てる。向かう刃も返す刃も、無駄な動きなど一切存在しない。思い描くのはかつて教わった剣舞のそれ。くるりくるりと、すべての動きを、敵を切り捨てるための動力となし、受けた力をそのまま返すようにして屍の山を築き上げる。
場違いなほど愉しげに笑う声が背中で響いている。つかず離れず、はじめは当惑を見せたものの、既に知盛は背後でが戦うという状況をうまく活用しながら自身の楽しみに没頭しているようである。
視界の隅には相手の白刃と、それによって描き出される血飛沫がちらちら映る程度。けれどもいつだって彼の存在を確信していられる。眩いほどのあふれる陽の金気が、ぎらぎらと漲っているのを全身の神経で感じ取っている。
それは幸せな錯覚だった。あの懐かしい日が戻ってきて、そしてなお続いているような夢想。彼は生きていて、ここにいて、背中を預けてくれて、二人で同じ未来のために戦っていて。かつてはそうだった。そして、その先もそうであるはずだったのに。
八つ当たりよりもなお醜い情動を、すべて切っ先に篭める。お前達が、お前達さえ来なければ。だって自分達は、もう都に返り咲くことなど望んではいなかった。望むものもあったけれど、望もうとさえしない総領の許で、穏やかにあのまま時間を過ごせればそれだけでいいと、自分も彼も、そう思っていたのに。
「臆しましたか!? 源氏の兵は、女の一人も倒せぬほどの腑抜けばかりですかッ!!」
嫌いだ嫌いだ、嫌いだ。お前達なんか嫌いだ。
かかってくればいい。身の程などわきまえず、この身を女と侮って向かってこい。さすらば一人残らず切り伏せてやろう。
この身は女。男には到底叶わぬ膂力と体力。なれど、そこらの男になぞ負けることはないといいきれる覚悟と闘気を知らしめよう。
「この月天将を倒す気骨のあるものは、いないのですか!?」
知れ、この名を。かつてあの人が笑いながら誇らしげに呼んでくれた、この身が纏う名のひとつを――。
Fin.
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