譲れない願い
奈落にも似た深さと桃源郷を思わせる優しさに満たされた夢のような舞台上の時間を終えて、あまりに懐かしい言葉によって夢と現の狭間に叩き落される。確かに肉体は現を認識しているのに、意識だけが記憶を漂うような錯覚。前を歩く広い背中ごしにちらと振り返った知盛が小さく何かを呟いていたが、それは蝉時雨に紛れてしまい、聞き取ることができなかった。
将臣から惜しみなく浴びせられる賞賛と驚嘆の言葉を聞き流しながら、知盛は今度こそ目的地へ向かうぞと望美を促した。白龍の神子は果たして、いったい何をもって何を見出したのか、困惑を主軸に据えたごく複雑な表情でと知盛をちらちらと見やってくる。だが、はここで余計なことを口走って墓穴を掘るつもりはないし、そも何の痛痒も覚えていないのか、知盛に至っては綺麗さっぱり無関心を貫いている。
先ほどは舞台上の姿に対して戦場での気配にも似た愉悦をみせていたというのに、感興と無関心と、いったいどちらが彼の真情なのか。もどかしいと思い、そう思う己を、なんと不実な存在かと自己嫌悪する。自分は彼に“彼”を重ねてはゆらゆらと惑い続けているのに、彼が彼女を見詰めることに、嫉妬にも似た感情を抱くなどと、身勝手にも程がある。
瀞八丁に辿りついてより先は、実にあっという間の出来事であった。院に取り入っていることなぞ何のその。いつもの調子でふらりと踏み出した知盛が無礼も不敬も歯牙にかけずに斬りつけることで怨霊の正体を暴けば、決着がつくまでにもう時間はいらなかった。
噂に名高き源氏の戦神子は、実に痛快な太刀捌きで怨霊を封じてしまう。道中を含め、正体を隠しているのだからと戦闘に加わることを許されなかった分、は望美と将臣、知盛の三人が織り成す戦闘を俯瞰することができた。ゆえにこそ覚えた戦慄があり、ゆえにこそ抱いた違和感がある。
実のところ、は源氏に属して戦場を駆けずり回っていながら、“源氏の神子”の戦う姿を目の当たりにしたことはなかった。彼女は常に九郎義経に同伴しており、はその九郎とは基本的に別の軍を預かる範頼に同伴していたのだから無理もないことなのだが、なればこそ、噂に聞く“源氏の神子”の実力は話半分程度にしか捉えていなかった。
一般の兵には、怨霊に抗う術がない。その中で、神子の示す封印の力がどれほど目映く映るかは、言わずもがな。そして、怨霊という得体の知れない相手やら勇猛名高き還内府を相手取るにあたって兵達の士気を維持するために、その存在をどれほど都合よく御旗印へと担ぎ上げられるかが軍師や将の手腕なのだ。別に剣の腕などなくとも構わない。怨霊を封じる力を保持し、それを顕示してさえくれれば。
もちろん、今もなお共に帰還の山道を歩む彼女があの“神子”と同一人物であるはずなどなかろうが、耳にする噂はどれも似たり寄ったり。ゆえにはこれまでと同じような感想しか抱いていなかったのだが、彼女の剣の腕は紛れもなく秀逸にして鮮烈。どこかしらで既に目にしていたのか、将臣に驚いた様子はなく、知盛は興味深そうに双眼を細めてうっそりと嗤っていた。だが、将臣と違ってこの世界に降り立ってよりまだ半年ほどだという現代人の少女が保持する腕前として、それはあまりにも不自然に過ぎる。そう思い至ったからこそ、はいっそう、望美の得体の知れなさを警戒する。
勝浦まではあとわずかとなった幾度目かの休憩で、そして不意に望美がへと声をかけた。これまでの道程のほとんどを将臣か知盛とのおしゃべりに興じることで過ごしていた様子からは予測もできず、きょとと瞬いた視線の先で、望美は年齢不相応な昏く深い光を湛えた双眸をひたと返してくる。
「“”さんは、今のこの世界の有り様を見て、それでも平家にいるんですか?」
将臣と知盛は、すっかり空になってしまった水筒を満たすために沢へと降っていった。荷物を見ながら待っていると言ったからには忠実に荷物の番を務めるつもりだっただけのは、不意打ちにも程がある望美の発言に、大きく目を見開いて息を呑む。
「情ではなくて義のために源氏にいてくれるって、そう思っていました」
彼女はナニモノだというのだ。知るはずのない、かつてが己に言い聞かせていた薄っぺらい言い訳と大義名分を眼前に突きつけ、告げた覚えのない名を紡ぐ。それは、だって彼女こそがの知っているかの源氏の神子であるという、暗黙にして高らかな宣言。
混乱は混沌を深め、現実と記憶の境界を曖昧に溶かす。あの自分を知る彼女がいるのなら、ではここはあの世界なのだろうか。だが、彼女が言うように自分は確かに今は平家に属していて、知盛は自分のことを知らなくて、何よりも生きていて。
世界が色を失い、絶え間ない蝉時雨がいつしか潮騒へと変わっている。夏の空は、あの日に船の上で見た、冬晴れの空に塗り替えられる。慣れない船の上での立ち回りですっかり乱れてしまった平衡感覚を思い出す。それでも確かに視界には目の前に座してを覗き込んでいる望美の姿が映し出されており、青空にはもうじき夕立を連れてくるだろう入道雲が見えている。そしてやはり、何が夢で何が現実なのかが、わからなくなる。
「わたし、は、」
けれど、何もかもがわからなくなっても、手放すことのできない願いだけは残されていた。だから、それだけを返す。彼女がいったい“どの世界の”神子であろうとも、関係はない。あの時の自分も、今の自分も、こうして剣を握って軍場にこそ駆け出していくのは、どうしても譲れない願いがあるから。
「わたしは、平家のためと、その思いを忘れたことなどありません」
声に出すことで決意の輪郭をなぞり、自身という存在を確立しなおす。虚勢を張ってでも声に力を篭め、呑まれないようにと見つめ返す視線に力を篭める。
「返しきれない、大恩があります。そのささやかなご恩返しのカタチが、時と場合によって異なるだけのこと」
「……じゃあ、今回は平家のために戦うことがそうだって言うんですか?」
「いつだとて、わたしの剣は一門のために」
詰る色を滲ませた問いに薄く嗤い、今度こそ紛れもなく誇りと自身に裏打たれた声で、は宣した。
「ただ濁と滅ぼされるわけには、参りません。せめては優しく終えられるよう、舞台を調えるお手伝いをするためにこそ、わたしは剣を振るっています」
その言葉を受けて何かを言おうとした望美は、にぎやかに近づいてくる将臣の声にはっと瞬いて視線を巡らせ、結局何を口にすることもなく声を飲む。
水汲みからの帰還と出発によって打ち切られた会話の続きを彼女は模索していたようだったが、に応えるつもりはなく、そのままどこかぎこちない空気に満たされた一行は勝浦に辿りつく。幼馴染との別れを名残惜しげにしながらも、彼女とて太刀を手に軍場を駆けるもの。意を決したように別離の挨拶を告げて踵を返す潔さにはも素直に賞賛を送り、思う。もはや、あのような問答を交わすことは二度とないだろう。
何がどうなって、この世界がいかな歴史を刻もうとも、もう、二度と。
Fin.
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