朔夜のうさぎは夢を見る

未来を愁う

「この程度で音を上げられては、困るのだが、な」
「音を上げてなんかいねぇよ! ただ、疲れただけだ」
 からかう色の強い知盛の言葉に憮然と言い返し、将臣は黙々と荷物を片付けていたへと声を放る。
「にしても、胡蝶さん凄ぇな。全然息切れてなかったろ?」
「それなりに鍛えておりますので」
「姫に劣る護衛……なんとも、情けないものだ」
「うるせぇって!!」
 絶妙の間合いで鋭い指摘を入れてきた知盛に今度こそ怒鳴り返し、将臣はごろりと床に寝そべった。


 熊野路は長い。本宮までの最短距離をとるつもりだが、女連れでは高野山を通れない。もっとも、将臣がこの調子では熊野路の中でも最も険しいといわれる高野路は避けて正解だったかもしれない。馬での長距離移動に慣れてしまうと、徒歩での移動はなんとも辛いものがあるのだ。
「こっからはどういうルートになるんだ?」
「新熊野を経由して、本宮へと一気に登る」
 将臣が駆使するカタカナに戸惑うような時期は、とおの昔に通り過ぎたのだろう。慣れた調子でさらりといらえ、知盛もまた引き寄せた脇息にもたれて楽な姿勢をとる。
「帰りは川を下れば早い。味方になるにしろ、敵となるにしろ、そのぐらいの気遣いはしていただけようよ」
「ああ。だから紀伊湊で待ってろって?」
「そういうことだ」
 どうやら別れ際に郎党に下していた指示の真意を見抜くことができていなかったらしい将臣は、ことここに至ってようやく納得の声を上げている。それを無感動に聞き流し、知盛は溜め息混じりに続ける。
「それと、“兄上”。そろそろ、その珍妙なお言葉遣いは改められよ」
「……どういう意味だ?」
「熊野は、熊野水軍の本拠であるということを、お忘れ召されるな、と。……そういうことだ」
 いったいいずこに耳目があるかわからないというのに、せっかくの”還内府”の名を汚すことは避けなくてはならない。あまりにも軽やかかついつもの調子であまりにも重要に過ぎる忠告を与えられ、将臣の表情がすっと引き締まった。


 本宮に着くまでの設定は、没落貴族の姫君とその護衛。本宮についてよりの設定は、“黄泉より還りし小松内府”とその腹心たる新中納言、そして室山の戦いにて源平に名を知らしめた正体不明の姫武者――夜叉姫である。名があまりの重みを持つ存在であればこそ、その名をほんのわずかにでも傷つけるような行為は命取り。特に“還内府”の名は、この世ならざるという側面を持ってなお、あまりにも重く、利用価値が高すぎるものなのだ。
「俺が“重盛”であることを疑わせたら、元も子もないってか?」
「そも、面会の取り決めさえ、反故にされかねん」
 ああ、やはり彼は違うけれどもどこまでも同じ。その慧眼の鋭さ、その含蓄の深さ、そしてそれらを使う時宜のあまりの的確さ。あれほどに厭いた様子を見せ、あれほどに無関心の様子であり、けれどきっと、彼は彼なりに一門を愛し、将臣を慈しんでいるのだろう。こうしてそっと道を示しては危難を一つずつ排している姿に遭遇すると、は胸の奥底がじわりとあたたかくなるような喜びを覚え、体の芯が凍てつくような切なさを覚える。
 同じで違い、違うが同じ。まるで、この心境の揺らぎは花占い。理性と感情を一枚ずつ剥ぎ取って、きっと最後に残るのはどうしようもない渇仰だ。それが”彼”に向くのなら、彼への思いに引き裂かれて気が狂うだろう。それが彼に向くのなら、”彼”への想いに引き裂かれて気が狂うだろう。
 やがてきたる戦乱の終焉、すなわち自分が知盛の傍らに置かれ続け、それを望む日々が終わるのと、この救いようのない花占いが終わるのはどちらが先だろうか。願わくば、この身を戦場に投じる必要がある間は、たとえ気が狂おうとも曇ることなき刃でありたいのだが。


 目の前で展開される光景を通り越し、自身の考えに没頭することであてどない幻を見透かす時間は、すぐに終止符を打たれた。ふと振り返ってきた深紫の双眸がの意識を現実へと引き戻し、ついで放たれた「膳を」という言葉には反射的に頭を下げてから腰を上げる。
 先の忠告も、こうして最後の細かな打ち合わせも、すべてはここが知盛の息のかかったものの邸だからこそ適うこと。ならば、この中でははあくまで彼らの下に位置する存在なのだ。おとなしく小間使いとしての立場に収まりながら、ずるずると尾を引く思考を強制的に断ち切る。
 考えても仕方がない。だって、考えれば考えるほど、袋小路にはまっていく。それだけは認められない。
 自分は果たして“彼”を本当に愛していたのだろうか、と。
 あの、最後の意識が溶ける寸前の祈りを裏切るような思索には、とてもではないが耐え切る自信がなかったのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。