未来を愁う
還内府の名実を源平両家にとどまらず広く知らしめた室山での勝利を足がかりに、西国での絶対的な支配力を土台にして平家一門は福原へと返り咲いた。もはや京の貴族からも鎌倉の源氏からも見限られた義仲は進退窮まり、ついには身内であるはずの九郎義経によって討たれたというのだから皮肉なものである。
「だからといって、なぜに手出しを控えねばならんのか」
独り言というには声が明瞭に過ぎ、言い聞かせるというには音が小さすぎる。もっとも、それこそが彼の常の在り方。限りなく無表情に近いごくつまらなそうな所作で杯を揺らす脇に控えて、は瓶子を拾い上げる。
「今ならば、兵力は五分……このまま一気にぶつかり合う、というのでも、面白かろうに」
いらえの代わりに響くのは水音。とくとくと、杯に満たされた乳白色の液体が、夜闇と月の姿を映して揺れる。
「“重盛兄上”も、意地が悪くていらっしゃる」
「……御身を気遣われてのことにございましょう」
「おやおや。夜叉姫は、兄上の御味方か?」
つれないことだ。そう仄かな笑みに揺れる声は、薄暗い自嘲に満ちていては好きになれない。
「味方も何も、ご自身のことをお考えください」
眉間にしわを刻み、ついつい咎めるような言葉を選んでしまう。
戦場にて前後不覚に陥って後、次にが目覚めたのは大手、搦め手の両軍が合流した本陣においてのことだった。何をどう説明されたものか、複雑な表情で戦功をねぎらった将臣は、そのまま続けての身柄を知盛に引き渡すことを告げてきた。
それは、望んでいたことであり、恐れていたことであった。今も変わらずその傍に置いてもらえるのなら、純粋に嬉しい。けれど、彼はあまりにも危険だ。だって彼は“彼”ではなく、その事実に惑うを見透かして、その上でなお自分に振り向かせようと宣していた。やがて、凌駕してみせると。そしては知っている。彼は“彼”ではないけれど、その根源は同じ。ならば、一度宣したことは必ずやり遂げる。すなわち、きっと彼の隣にいれば、自分はやがて“彼”を思いながら彼へと思いを呑み込まれる。そうして思いの渦に呑まれ、いずれは狂ってしまいかねない未来を予感している。
もっとも、どうせあってないような身分しか持たなかった身。むしろ室山での働きによってこそ名を知らしめたれば、今度こそ速やかにその立ち位置が決される。
すなわち、平家が軍神の従える、冷酷無比たる夜叉姫と。
召され、据え置かれた立場は専属女房と愛妾との中間のようなものだった。ふらりと訪れる主の相手はするが、雑用は申し付けられない。不謹慎ながらも手持ち無沙汰に暇を持て余した中で、行動には制限もつけられない。ならばと、とりあえずは自身の寝起きする見覚えのある、しかし見知らぬ邸において出入り可能な範囲をまずは把握しなおそうとさまよっていた中で、だから主が人知れず臥せっている姿を見つけたのは、いかにも奇跡的な確率であったと後から知った。
人払いのかけられた一角で、脇息に身を預けてぐったりと眠り込んでいる姿には指先が冷えたものだ。遠目にも明らかな顔色の悪さに慌てて距離を詰めれば、かろうじて取り戻したらしい朦朧とした意識の向こうから、掠れた声で人を呼ぶなと言い渡される。呼ぶな、明かすな、秘せ。これは、誰にも知られてはならぬ。
あまりにも泰然と放たれる言葉はあまりにも状況に即した現実的判断に基づいていて、は反論の余地を見出すことができなかった。彼という存在は、もはや揺らぐことを微塵も許されぬ偶像。還内府と並び、平家一門が最後の砦とする、そして源氏への最高の切り札である、ヒトであることを否定された身なのだ。
それでも、現実とはえてして人の意思には染まぬものである。秘せと言われ、納得してしまったからには共犯者になる用意のあるだったが、知盛が身内に抱える病魔はそう簡単に隠しとおせる段階を突破していた。その日は昼下がりから日が沈むまでの時間をうつらうつらとまどろむことで何とか体裁を取り繕った彼が、軍議の終了後に倒れたのだといって前後不覚のまま還内府に連れ帰られたのは、翌日の夕刻のことだった。
幸いなのか不幸なのか、将臣もまた知盛の存在価値を嫌というほど認識しているうちの一人。極力人目につかぬようにとの配慮の結果、事の真相は実弟である重衡と、帰邸に随伴した幾人かの知盛配下の郎党が知るのみで抑えられた。これは広めてはならない重要機密。その認識が共有されればこそ、状況の一端を知ってしまったが便利な世話役としてさらに地位を固められたのも、むべなるかなというものである。
「宇治川よりこちら、源氏の総大将は九郎義経殿なのだろう? ぜひに、お相手を願いたいものだが」
「還内府殿は、勝ちすぎず、負けすぎぬことこそが此度の目的であるとおっしゃっていらしたではありませんか」
「次の機会がある、と?」
「いつまでも出し惜しむわけにはまいりますまい」
“平知盛”は、本当に、どこまでも平家一門にとって意味が重すぎる将なのだ。たとえこの先、彼の体が完全に病魔に蝕まれるようなことになろうとも、必要とあらば彼は常の獰猛な笑みを浮かべて、何事もないように戦場に降り立つだろう。それこそが彼という存在に課せられた名の重みであり、その重みを余さずまっとうするからこそ、彼はどこまでも平家一門の最後の砦なのだ。
Fin.
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