朔夜のうさぎは夢を見る

やまない雨

 先触れの使者に報せは持たせていた。なので、きっと覚悟はしているだろうと思っていたし、実際に到着すれば一層の騒ぎになるだろうとも思っていた。ただ、将臣がその規模を読み誤っていたというだけで。
 ただでさえ大敗を喫した後の空気は重く、暗い。それは覚悟していたしわかっていたのだが、六波羅を覆う気配の重さは尋常ではなかった。
「これが、アイツの重みか」
 ぽつりと呟いた声に視線を流した重衡の微笑みは痛ましい。夏を間近に控えた季節であるため、湿度の高さから遺体の損傷具合は軽微とはいえなかった。それでもなお怯まず、躊躇わずに亡骸に駆け寄り、静かに唇を噛んでいたのは昨晩遅くのことだった。
「兄上は、平家随一の将。将臣殿には失礼ながらも、今もってなお兄上のことを平家総領として慕い、敬う者も少なくありませんゆえ」
「失礼なんかじゃねぇよ。それが、あるべき姿ってやつだ」
 黄泉より還りきた清盛の盲目によって祭り上げられただけの自分などより、彼の方がよほど総領という立場に適していると将臣は思っている。だから、立場に慮ったのだろう重衡の申し訳なさそうな声音には、逆に乾いた笑みが浮かんでしまう。なんと、なんと皮肉に歪んでいくのだろうか、と。


 血と泥とを丁寧に拭い、生々しい傷口が極力隠れるように処置を施された骸は、今は泉殿の一角に安置されているはずだ。穢れだのなんだのといったものを気にする風習はあれど、やはり、血を分けた我が子の壮絶な死は別枠なのだろう。清盛と時子のたっての願いであると聞いてしまえば、将臣には反対するだけの理由など何もない。
 状況を聞かせてほしいという要請を受けて将臣が訪れた頃には、時子は既に下がった後だった。気丈に振る舞って息子の最後の姿を見届けにはきたらしいが、尼君にとって彼の死に様は衝撃的に過ぎたのだろう。
「死に目に会えたのは、俺だけなんだ」
 横たえられた躯の枕辺に座したまま、じっと黙りこんでいる幼い姿の彼の父に、将臣はぽつぽつと語る。
「どうにかしたかったんだけど、俺には助けられるだけの手当てはできなかった」
「……なんと、言うていた?」
 気遣わしげに目を上げた隣の重衡を手で制し、すまないと、どうにもならない謝罪を絞り出した将臣に、返されたのは震える声。
「知盛は、最期になんと言うていた? 何を思っておった?」
「……ッ!」
 言えるはずがない。まさか、こうして悲しみに沈む人々を捨て、どこへなりとも去れと、そう道を示されたなどと。


 言葉を呑んで唇を噛んだのを、けれど清盛は遠慮と受け取ったのだろう。視線は息子から微塵も外さないまま、そっと声だけで苦笑する。
「別に、矜持だの何だの、そのようなものにこだわりはせん。ただ、最期に何を思うたのかを、知りたいだけじゃ」
「将臣殿、私からもお願いいたします」
 家族にさえその真意を簡単には明かそうとしなかった男の胸の奥を知りたいのだと、重衡もまた言葉を添える。
「なんぞお心残りがあるのでしたら、その憂いを、適う限り取り払って差し上げたいのです」
 彼は、何が心残りだったのだろう。促されてゆっくりと記憶を辿り、そして将臣は息を詰める。ああ、そうだ。そういえば彼は、あんなにも切なげに、愛しげに、悲しげに。たった一つの名前を、必死になって呼ぼうとしていた。もはや音を紡がぬ唇を震わせて、おぼつかない視線を宙にさまよわせて。
「名前、呼んでた。よく聞こえなかったけど、女の人の名前だと思う」
「女君の? では……胡蝶、あるいは、と呼んでいらしたのではないでしょうか?」
「その二択だったら、きっと“”さんだったと思う」
 将臣の知らない心当たりがあったのだろう。すっと示された可能性は確かに彼の唇の動きと、かろうじて聞き取ったひゅうひゅうと掠れていた声に合致する。
「………さようにございますか」
 黙って握りしめられた清盛の拳に、切なげに伏せられた重衡の視線に、そして将臣はその名の示す意味を問いただすことを諦める。この場で明かすには、今の自分の状態はあまりにも危うすぎる。あまりにもあまりにも、知盛の死は、将臣にとって重すぎたのだ。


 その日はそれだけで清盛の前を辞した将臣が死反しの術についての話を聞き及んだのは、さらに翌日のことだった。知盛に限らず、今回の倶利伽羅峠では多くの将と兵とを喪い過ぎている。一度こうと決めた清盛の意思を覆すことが不可能であることはもはや悟りの境地。
 次々に還される怨霊達についての報告を聞きながら、けれど、きっと彼は還らないのだろうと、そのことだけは確信していた。彼だけは還るまい。最期の最後に、将臣に重盛としての名を、立場を捨てて一門から立ち去れと忠告をしてくれたのだ。ありうべからざるものを忌避し、倦厭していた。ありうべからざる存在として還ってしまった同胞をそれでも完全に毛嫌いすることができなくて、矛盾の中でもがいていた。
 だからきっと、彼は還らない。それが間違っているとわかっていてなお呼んだとしても、何も知らずに盲目的に呼んだとしても、きっと彼は還ってきてくれない。それが優しさであり覚悟であり彼という生き方であると、なんとなく察している。だからこそ、将臣は遠慮なく呼び、噎び泣いたのだ。何度も何度もその名を呼んで、許された残り香を必死に愛でたのだ。彼の喪失という現実を、真っ向から悼むために。
 忘却は救いであり慈悲なのだという。人は、忘れるからこそ生きていけるのだそうだ。深く深く穿たれた傷も、時間の積み重ねによって少しずつ癒されていくらしい。
 無理やりに思考を切り替えて日々を過ごしながら、そうして知盛のこともやがては思い出にしていくつもりだった。まだあまりにも生々しくて、彼の存在を思い起こすような場所には赴けないけれども、きっと大丈夫だと信じていた。
 もう少しだけ時間が欲しい。けれど、もう少ししたら真っ先に“”という人物に会いに行こうと思っていた。会って、伝えるのだ。あなたのことを、あの男は最期に呼んでいたと。それが、彼の終焉を看取った自分の責任だとさえ考えていた。そして、そうやって猶予を求めていたことがひとつの要因だったのだろうと、後になって思い至ったのだ。


 騒ぎを聞きつけて駆け付けた先で遭遇した存在を視界に映した瞬間の歓喜と絶望の衝撃を、自分は一生忘れることがないだろうと思った。喪ってしまったことが悲しく寂しかった。だからこそ、再会できたことは素直に嬉しかった。それがどれほど矛盾に満ちた存在だとしても、本当に嬉しかった。その思いは偽れなかった。けれど同じほどに、彼がその道を選んでしまったことに失望し、絶望していた。なぜ戻ってきてしまったのか、と。
 戻ってきた瞬間のことを、将臣は知らない。戻ってきた直接の原因を、将臣は知らない。どれほど術を重ねても決して還ろうとしなかったのに、なぜ今になって唐突に戻ってきたのか。知らず、わからず、そして問うてはいけないことだと感じた。だから問わなかった。たとえ在り方が変じてしまったとしても、知盛は将臣にとって大切な存在で、いたずらに傷つけたりむやみに踏み込み過ぎたり、そういうことをしたくなかったから。
 月のない夜だった。星明かりに薄っすらと照らされた室内で、知盛は細い人影を掻き抱いていた。恐れるように、守るように、確かめるように。世界のありとあらゆるものから遮断するように腕の中に閉じ込めて、じっとその存在を感じ取っているようだった。その背中を黙って見つめることしかできない将臣に退室を促したのは、前後するようにして駆け付け、同じく視線を動かせずにいた重衡だった。
「雨ですか」
 声もないまま部屋を後に、とにかく一旦知盛邸を辞そうとしたところで、雲が欠片も浮いていない天から降り注ぐやわらかな水のとばり。何かを隠すように、洗い流すように、音もなく降り続ける冷たい水滴。
 不思議なものだと、呟く重衡の声が感傷的だったのは気のせいではないはずだ。だがそれ以上に、将臣はあまりにもまざまざとその水の気が孕む気配を感じ取っていた。
「――泣いてるんだよ」
 深い絶望に縁取られた安堵の気配。ならばどうか天よ、彼と彼女の代わりに存分に泣いてくれと。願いと祈りを篭めて闇色の空を振り仰ぎ、水滴が頬を伝う感触に、ただ立ちつくしていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。