朔夜のうさぎは夢を見る

卯波の立つ頃

 権門にあり、才に優れ容姿に恵まれる兄は、朝廷での栄達もさることながら、一門の中においても位厚き存在であった。総領たる長兄には及ばぬものの、その才覚ゆえに父、相国殿の覚えもめでたく、誉れも深い。畢竟、彼の許には唐土からの品も地方からの品も数多く集まり、そしてそれらにほぼまったく興を持たぬ性質ゆえに、恩恵はもっぱら彼の郎党やら女房やらに行き渡ることが多いというのも、また有名な話である。
 無論、彼とて物欲がないわけではない。名産地から献上される馬やら刀剣、珍しき織物の類には興を示すこともある。だが、例えば香だの宝飾品だの、そういったものにはあまり関心を示さないのだ。
 それを知っていればこそ、それらの品を皆で分けよと父から賜れば声をかけはするが、多くは自分よりもそれを欲する、他の一門の者へ回せばよかろうと答えてばかりだった。その兄が、しかしどうしたことか、最近は律儀に顔を出し、品々に目を通すようになったのだ。


 添えられていた目録を片手に、並べられた品々にぼんやりと視線をやる姿はだらけきっているようでいて隙がない。その深さを知る者は多くもないが、兄はこれでいて相当の目利きである。己に似合うもの、どう見せたい時には何をどのように纏うべきか、どう振る舞うべきか。それらを知り尽くし、要所要所でさりげなく駆使して生きている。そして、それは他人に対しても同様に。
「……梅花か、菊花か」
 蒲柳の質ゆえとの父と母の意向もあり、当人の自覚もあり、それらの周知の徹底もあり。品に入っているのを見た時点で、茶葉は暗黙の了解の許に家人に申し付けて兄の荷物として片付けられている。さて、それでは残る品物をどうするかというところで、ふと漏らされたのは独り言。
 気づいて視線を巡らせた長兄は、しかし賢明にも声を漏らした当人ではなく、よく似たもう一人の弟に近寄るようにと目で促す。
「知盛はどうしたというんだ? 香はもっぱら、侍従か伽羅かと思っていたんだが」
 潜められた声での問いかけはもっともであり、それと同時にこの遠い兄の目敏さに感心させられるものでもあった。宮中に出仕する身として、嗜み以上の雅事の知識も技術も身についている二人であるが、その好みの度合いは大きく隔たっている。どうせならば存分に満喫しようと考える重衡とは対照的に、知盛は実に控えめに香を燻らせる程度。しかも、一般的な組み合わせではなく、そこにひとひねりを加えたものである。
 言われてみれば「ああ」と納得がいくが、ただぼんやりとかいでいるだけでは「なんとなく、彼を連想させる香りがする」という程度。意識してその中身を割り出そうとしなければなかなか気づきにくいだろうそれを、きっちり把握されているとは思わなかったのだ。
「お気づきでいらっしゃいましたか」
「仮にも兄なんだぞ? そりゃ、弟のことを気にするのは当然というものだろうが」
 呆れ返った様子で諭し、けれどそのまま続けて「似合わないようでいて、嫌味なぐらい似合っているんだよなぁ」とぼやいてくれるから、二人の間に漂う空気が必要以上に重くなることはない。その役職や立場に見合った言葉を交わす時はともかく、それ以外の場面において、この兄はいつでも気安い空気を演出してくれる。だからこそ、本当に数えるほどしか出会うことのない多忙を極める彼を、自分達がどこまでも敬愛して、どこまでも思慕してしまうのはどうしようもないと思っている。


 ちらと横目で見やれば、すぐ上の兄はいまだ自分の中に入り込んであれこれと考えている様子である。
「最近お気に召しておいでの方が、いろいろと試されているのだそうで」
「なんだ、贈り物か! いや、しかし、アイツが?」
 目を円くしたと思えばあっという間に眉間に皺を寄せ、疑惑の視線をさまよわせる姿は年齢に見合わずどこかあどけない。思わずくすりと喉を鳴らし、重衡はそっと言葉を添える。
「何でも、異国より流されていらした方だとか。いろいろとお教えすることに凝っておいでのご様子ですよ」
「そうなのか? だが、そんな話、聞いていないぞ?」
「随分と徹底的に秘していらっしゃいますので」
 もっとも、重衡は秘される側ではなく秘す側であった。まじまじと目を見開いて驚愕を噛み締める長兄がそのことに気づいて恨み節を述べる前にと、それとなく予防線を張っておくことにする。
「先日、邸を訪ねた折にお見かけいたしましたが、年の頃も近いご様子」
「なるほど、身元を引き受けたのか。……ん? ということは、身を固める気になったのか?」
「それともまた、少々異なるご様子とは思いますが」
 予防線とはいえ、言葉に偽りはない。年も近く、正妻の子息ということで立場も近いゆえに互いに邸を訪ねては仕事の話の続きをすることも多かったところを、しばらくは自分の邸にその手の話を持ち込むな、と釘を刺されていただけなのだ。無論、理不尽な要求に応えるような可愛げがあるはずもなく、それをきちんと承知している兄もまた、余計な詮索をされるよりはと最低限の情報を明かしてくれていた。それゆえの秘す側の立場に過ぎない。
 とりあえず、自分の見聞きすることの適った、そして長兄に明かしても構わないだけの情報を開示したところで、おもむろに顎を引いた兄が、控えていた女房に菊花香を包むよう指示を出す。そして、その段になってようやく、にこにこと実に嬉しげに自分を見つめる藍色の双眸に気づき、視線を転じる。
「何か?」
「いや、いやいや。他は良いのか?」
「私はもう、存分にいただきましたゆえ」
 重衡から言わせてもらえるのなら、別に兄の取り分は存分に、というほどではないのだが、これまでほぼ一切自分からこういった配分の場に顔を出さなかった兄にしてみれば、十分なのだろう。彼は、あればあるだけ欲しい、という類の人間ではなく、必要なもの、本当に欲しいものが満たされればそれでいい、という類の人間なのだ。その分、その欲しいもの、必要なものへは一切の妥協を許しもしないのだが。


 武の才の賜物か、気配に過ぎるほど敏い兄は、同時に公私の切り替えが非常に明白でもある。完全に私的な場であるこのような席では、己の思考に没頭すると周囲の音やら動きやらから一切遮断されてしまう。とはいえ、居合わせるのが一門の者だけである私的な席ならばすべからくそうかといわれれば、そういうわけでもない。
 このような姿を見ることができるのは、ごく限られた場面においてのみ。その事実はすなわち、彼にとって自分達がいかに特別な存在であるかの証左。そして、それをそうと知っている自分の立ち位置が、重衡は純粋に嬉しく、誇らしい。
 玉だの反物だの、いかにも女君の喜びそうな品がまだたっぷりと残されている。せっかくそれらを優先的に選り好みして獲得できる地位にあるのだから、そういったものを贈ればいいと思うのだが。
「そうか? ほら、こっちの珊瑚の飾りとか、贈る相手はいないのか?」
「あいにくと、心にかかるえにしもなければ」
 どうやら重衡と同じことに思い至ったらしく、少々あからさまなぐらいの勢いで長兄が薦めても、知盛はあっさりと断ってしまう。かつて同じようなことを同じように問うた重衡には、使い道が無いからと言って断られてしまうと説明をしていた。
 虚を衝かれたように目をしばたかせる長兄の反応も、無理からぬもの。重衡とて、それを聞いた時にはしみじみと、なんと不思議な方なのだろうと思ったものだ。そして、ゆえにこそ兄の“暇つぶしの材料”に選ばれたのか、とも。


 もうこれ以上は結構と、その意思をより明確に示すつもりになったのだろう。手短に、けれど丁重な辞去の言葉を残してさっさと腰を上げてしまった背中を見送って、重衡は長兄と目を見合わせる。
「なぁ、重衡。近く、知盛が確実に邸を空けるのはいつだ?」
 ふと表情を改めるから何事かと思えば、実に突飛なことを大真面目に問い質してくる。
「……二日後でしたら、左近衛府に赴かれるはずですが」
「それなら、確実に夕刻まで帰らんな」
 ふむふむと顎に手をやって頷く姿に、重衡はわかりやすく嫌な予感に駆られる。
「一体、何をなされるおつもりです?」
「知盛が隠しているんなら、正面から聞いてもはぐらかされてしまうだろう? だったら、ここはひとつ、こっそり様子を見に行くべきだと思ってな」
 兄よりも年上の子息を持つ父親とは思えない無邪気な発想に、くらりと眩暈を覚える。内府殿と呼び称される、威儀に満ちた、平家の希望と誉れを一身に体現する総領の側面は、時にこんなにも幼げなのだ。
「………でしたら、少なくとも件の御方には、お立場の一切を伏せていただきますよう」
 もっとも、こうと決めたらば確実にやり遂げるのもこの長兄である。止めるだけ無駄であるとの判断が、即座にこの場で念押しをしておくべき事項の確認に移る。
「ああ、そうか。異国の出自ということは、一門のこともあまり知られてはいない、と」
「あまりではなく、まったくご存知ではないご様子です。まして、兄上がそれを知らせぬよう、徹底していらっしゃるものですから」
「安芸殿も家長も、アイツのところの家人は、アイツに甘いからなぁ」
 ふっとまなじりをやわらげ、声をほどいて長兄はあたたかく笑う。


 そういうあなたこそ、自分達に甘いではないかというくすぐったい感慨は胸に沈め、重衡はそつなく微笑み返す。
「私は、しばらくはその方に顔を見られるなとまで釘を刺されておりますが、重盛兄上ならば大丈夫でしょう」
「そこまで徹底しているのか? 珍しいな」
 それから、ほんの少しだけ眉尻を下げる。
「そのまま、その娘を碇にしてくれればいいんだがな」
 声に孕まれるのは、憂いか、愁いか。ああ、やはり彼もまた自分と同じ不安を抱いているのだと知り、少しだけ安堵して、少しだけ切なくなる。あの珍しき蝶が兄の気紛れな暇つぶしの材料ではなく、その心を捉え、満たし、拠り所となってくれる存在であればいいのに。
「でも、そうだな。だったら、いくつか土産でも持っていくか」
 まばたきひとつで感傷を拭い去った長兄が、声を弾ませて残された品々へと目を転じている。どうせ残りは一門の者でそれなりに分けるといえ、主に妻や側室、娘、恋人への貢物としていずこかに消えるものがほとんど。そして、地位と立場に見合った分配ということで、どうせそれなりの分量は後から兄の邸に届けられて家人の手に行き渡るのだから、長兄がその使者になったところで問題はなかろう。
「重衡、お前、遠目には見たんだろう? どんなお嬢さんだ?」
「そうですね」
 先ほど自ら薦めていた珊瑚の飾りを手にとって睨みながらかけられた声に、重衡は少し離れたところに置いてあった水晶の飾りを引き寄せて、淡く笑む。
「月抱く夜空のような、美しき闇色を纏う方ですよ」
 様々な姫君にありとあらゆる贈り物を渡し、喜ばせてきた経験は、しかしかの蝶が喜ぶだろう物を見出せない。兄の眼に菊花が似合うと見なされた彼女は、何を纏えばより美しくなるのだろうか。いくらそれを思い描こうとしても、どうしても兄の後ろ姿が脳裏をよぎる。
「……そうだな。碇よりは、包み込む静穏なしじまであってくれれば、なお良いか」
 指先でくるくるともてあそんでいた水晶に目を留めて落とされた声のぬくもりに、なんだ、と納得が胸の奥に収まるのを知る。自分は期待しているのだ。そして恐らく、長兄も。見向きもしなかった場に顔を出すようになった兄が、もっと、彼女のためにと贈り物を選ぶ姿を見られる未来を。



(どうか芽吹き、どうか花となり、どうか結実せんことを)
(どうかどうか、春の夜に見る朧月のように、ありうべくして共にあらんことを

Fin.

back to 遥かなる時空の中で・幕間 index

http://mugetsunoyo.yomibitoshirazu.com/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。