冷たい指先
その衝撃と慟哭を、自分はきっと忘れないだろうと思った。もう終わりだと、その確信の向こうでなおそう思ったのだ。忘れ得ない衝撃であり、絶望であると。
脳裏を駆け巡るのは様々な懸念であり懸案だった。ここで自分が絶えたら、いったい誰があれらを処理するというのだ。誰よりも間近な実弟の顔が浮かぶ。甥の、義兄弟の、従兄弟の、叔父の。そしてあの、人の良すぎる客人の顔が浮かんだ。
託すことはできるだろう。だが、それでいいのか。悔しいと思い、申し訳ないと思った。ありとあらゆることを中途半端に、放り投げたまま立ち去らねばならないこの身が口惜しい。
油断していたつもりはない。絶対など存在しないことはわかっていた。だからこそ足掻く気になったし、だからこそ抗ってきたのだ。だというのに、こんなところで。
「――!」
谷底に落とされなかった分、ましだと思わねばならない。霞のかかる意識と、麻痺してろくに動かない四肢。それでも、この夜闇における乱戦の中では分が悪いと判じ、逃しておいた愛馬が戻ってきてくれた。戦場において、主人のことを恐らく誰よりも理解してくれている対の存在に助けられ、知盛はかろうじて本陣へと進路をとる。
「――ッ!?」
夜は未だ、果てを知らぬほどに深い。明けが遠い。ありうべき静寂にありうべからざる不気味さが加わっているように思えるのは、さて、ろくに働かなくなった耳のせいか、らしくもなく弱気になっている心のせいか。
「おーい! 知盛! 経正! どこだーッ!?」
耳朶を打つのは誰の声なのか。朦朧とする聴覚に、懐かしい音が響く。ではこの意識は既に泉下へと向かいつつあるのか。そんなことさえ、思う。
「知盛……っ!?」
馬がいなないた。切なげに、喜ばしげに。お前は誰を見つけたのかと、問う声は音にならない。ただ、彼が喜んで迎えるのならばそれは味方だ。もう本陣に辿り着いたのかと、取り留めなく空回る思考は体が傾いだことさえ他人事のように捉えている。
「おい、しっかりしろ! 聞こえてるか!?」
懐かしい声だ。この世にありえぬ、遠い声。だが、自分はまだここに在りたい。だからきっと、これはあの客人の声。
「……あり、か……わ?」
「おう。いいか、じっとしとけよ。簡単な止血しかできねぇけど、何もしないよりはマシだろ」
言いながら引き起こされたのか、ただでさえ足りていない血が全身から流れ出す錯覚に囚われる。意識が遠のく。深くやわらかな闇の底へと。
「待て、目ぇ閉じんな!」
意識を保てと、そう叱咤する声が遠い。わかっている。ここで意識を手放せば、きっと自分はもう目覚められないだろう。
「……ありかわ」
「喋んな! 止血したら、陣まで連れてってやるから」
「ありかわ、まさおみ」
言い置かねば。だが、何を。
託してはならない。託さねばならない。何もかもすべてを。どれほど何を思おうとも、黄泉路に手荷物を携えることは許されない。
「去れ」
混濁し、ずぶずぶと溶ける思考が辿りついたのは愛惜の思い。
「一門を、去れ」
守ってやれない。庇ってやれない。そうしてこの子供が幻影に呑まれる未来を、知っていて見過ごすわけにはいかない。それはきっと、辿りうる確かな未来において彼が得て、失うすべてへの哀惜の思い。
「夢は、夢のままに……終える、べき……だ」
「なに、ワケのわかんねぇこと……ッ!!」
もはや感覚など残っていないのに、子供が震えていることを知る。声が遠い。ぬくもりが遠い。光が遠い。
「……――」
名を呼ぶ。預かり、明かすことをやわりと妨げ、腕の中に閉じ込めた名を。守りたいと、譲れないと、そう定めた現の夢を示す音を。これが末期の夢への第一歩だというのなら、せめては見たい夢に辿りつけるように。呼吸さえままならないため、紡ぐ名は音を結ばないけれど。
「知盛! おいッ!!」
ここにお前がいなくて良かった。お前をこの地獄に巻き込まずにすんで良かった。でも、叶うならお前の傍らで、お前の気配に包まれて、水底に沈むようにして眠りに堕ちたかった。
そして知盛は絶望を知る。何もかもが失われ、やわらかな闇に閉ざされた夢と現のはざかいで。
だって、届いたそれは初めて聞く声。呼ぶ声に自分の不孝を思って気が塞ぎはしたが、応えるつもりは微塵もなかった。理を歪めてはならない。そのことを知っていた。だというのに、どうして。
――アレが厭わしいなら、吾が喰ろうてやろうほどに。
それは、あまりに理路整然とした狂気。わかる。知る。狂気がそのあぎとを、牙を、彼女に向けていることを。違う。そうではない。それは違うのに。叫べども叫べども、慟哭は届かない。彼らの声は届くのに、彼らに声が届かない。
振り払えばいいのにそうしないのは、不可避の現実でもあろうし、自分が命じたからでもあろう。そして、自分が何も告げなかったからだ。
今こそその力を奮うべきなのに、彼女にはそれが叶わない。その身を重く縛すのは過剰な陰の気。ありうべからず陰陽の調和。あまりに純然たる理の力を身に宿すがゆえに、彼女はその歪みを存在自体をもって否定する。拒絶する。何も知らぬままならば、抗うことさえままなるまい。何の身構えもなく対峙することが敵うほど生ぬるい相手ではないのだ。
たすけて、と。泣き叫ぶ声だけが“平知盛”ではなく“知盛”を呼んでいた。一門の行く末やら平家としての力を憂う思いなぞ一片もなく、ただひたすらに“知盛”という存在を。その力に縋るためではなく、その存在を心の支えとするために。
守りたいと、そう欲した。喪われてはならない。害なわれてはならない。義務も責務も宿命も、何もはさまれない、それこそは欲求にして本望。
指を伸べ、戻れない道を振り返る。駆けろ、一刻も早く。彼女をこの腕の中に囲い、守るために。
他には何も考えていなかった。世界を貫く理の存在を思い出したのは、温度を持たない己の指先が彼女のぬくもりをしかと確かめた後。何もかもすべてに、取り返しがつかなくなってからのことだった。
Fin.