常闇に沈む
世界の逍遥のお蔭で、お前の魂は『死を超える』ことに馴染んでいるのだよ。
周囲になど微塵も気を配らず、ひたすら内に篭もることですべてを遮断していた知盛の感覚に滑り込んできたのは、そう、唐突に言葉を紡ぐ玲瓏たる声だった。
だから、死反しの術などという、かくな児戯を経ずとも、彼岸と此岸のはざかいを超えるのはたやすかったろう? なにせ、お前という魂の在り方は、あまりにも多くの死を内包している生。ありうべからざる矛盾が、お前の自我という秩序によって保たれている例外なのだから。
いっそ穏やかな声だったが、それは初めて聞く事実だった。確かにこの身は多くの死を逍遥している。その突飛な現実は知っていたが、まさか、それを齎した存在に面と向かって例外とまで称されるとは思わなかったのだ。
ただ、これでは魂が剥きだしの状態。それは、お前にも世界にも良くないこと。
そこまで告げられて、知盛はようやく意識を音源へと傾けてみる。
「ようやく、こちらを向く気になったのか?」
「……ここは、俺の意識のうちだと思うのだが」
「そうだよ。だけど、私はお前が思うよりもずっと遠い存在。ヒトの子の夢に入り込むぐらい、神としては雑作もないこと」
不可思議な感触だった。娘を腕の中に抱いている。それは感じているし見えてもいる。だというのに、もう一つの視界が確かに存在して、知盛は娘を見やると同時に薄く白銀の光を湛えた闇色の空間に、青灰色の龍を見ている。
勝手に人の意識に介入してくれたらしい見覚えのある神は、果て知らぬ空間に悠然と身を浮かべて言葉を織る。
「お前は、世界の逍遥を経ることによる対価として、良くも悪くも強大な魂の持ち主になっているのだよ。つまるところ、莫大な“気”の塊」
肉体という器があればそれにあわせた量だけが表にみえていたけれど、その制限がなくなれば存在が剥き出しになる。今のお前は、まさにその状態。嘯く声は軽いくせに、どことない愁いを滲ませて神は続ける。
「カンナギを助けたいと、ただそれを思っただけの瞬間は良い。だが、その思いがほんのわずかにも何か別の方向に向けば、そこにお前の宿す力が流れ出す。……一個の魂としてはありえない強大さゆえに、我らはそれを放置するわけにはいかない」
「………この身を、滅ぼしに参られたのか?」
「あるいはそれこそが慈悲なのかもしれないけれどもね」
違うよ、と。今度こそはきと愁いを湛えた声で、神はその神託を告げる。
お前の魂を剥き出しのまま放置するわけにはいかない。だから、我らはお前に器を与える。
神の与える器ゆえに、その存在を留める力は怨霊を留めるソレとは違うモノ。
器はあくまで枷。存在そのものは陰の気ではなく魂そのもので構成されている。
特殊な力は何もない。ただ、器を喪って黄泉路を辿るはずだった魂が、現世に留まるための仮初の器。カタチさえ定まっていない、魂の姿がそのまま反映される水鏡。
淡々と、しかし朗々と。紡ぎあげた神は、けれどすべて事象には陰陽が存在するという世界の理をも突き付ける。
「器を与える上で、我らはお前にふたつの条件を与える」
「条件?」
「そう。ひとつは、このまま神子にまつわる諸々が片付いて世界の辿る道が決するまで、中座が許されないこと」
お前は生き人ではない。留める力が異なるとはいえ、この世に在るモノをヒトか否かに大別するというのなら、お前は怨霊と同じきモノ。けれど、神子がいかに強力な封印を施そうとも、お前の器は崩れない。お前の魂は幾重もの死を内包しているゆえ、神子の封印など、幾度でも耐え切れる。
「たとえその現実に堪えかねて発狂したとしても、理性を完全に失うことさえできない。その発狂の末にお前の自我を支える存在をその手にかけたとしても、お前は“終わり”まで付き合わねばならない」
「……もうひとつは?」
温度も色も、すべてを失った声で問い返した知盛に、変わらぬ憂愁に満たされた声が、澱みなく言葉を重ねていく。
「そのすべてが片付いた暁には、この世界の魂の廻りから切り離されること」
すべてが終わった後は、いつどこでどう果ててもお前の自由。神子の封印は有効になり、陰陽師や僧侶に滅される道もあろう。器が朽ちるのを待ってもいい。
ただ、一体何がどうなっても、二度とこの世界で生まれなおすことはない。
この世界の持つ輪廻に組み込まれることはない。どこか、別の世界で生まれなおすかもしれない。そうではないかもしれない。
確かなのは、この世界のモノがすべからく還るこの世界の龍脈に、お前だけは帰れないということ。
それはもはや選択の余地のない宣告だった。声が途絶え、完成されたしじまに鎖された世界で、知盛は与えられた神の決定を胸の内に反芻する。
戻った以上はもう後には退けない。
知盛が選んだという、その現実だけが過去の一部となり、積み重ねられた。そんな非常識な魂になってしまったいきさつとか、そういう情状酌量はない。
「恨みに溺れて世界を破滅に導くのなら、それを我らは受け止めると、かつて言ったね? 今もなお、言葉を違えるつもりはないよ」
「その可能性を孕ませてなお、この身を現に留めると申されるか」
「留めるのではない。留まるのだよ」
だってお前は、その身が培った特異さゆえに駆け戻り、あまつさえ我らの加護にも入り込んだのだから。
嘯かれた言葉に、知盛はようやく己が身を形作る気配が水気に偏っていることを知る。金気に富んでいたはずの己が、痛いほどに清浄な水気によって存在を支えられているということ。その事実を知ってしまえば、自分が何をしでかしたのかを察することは難しくもない。
彼女を導に、彼女を取り巻く加護を糧に、そして自分はここに影を結んだのだ。
「受け入れろ。これもまた、お前の宿命だったのだろうよ」
やはりいつかの夜に聞いた言葉と同じ宣告に、知盛が選べるのは、その道をまっとうすることだけ。
「こうして存在することで、コレを害うことには?」
「ならない」
「このことによる、かつての対価への影響は?」
「ないよ。お前の築く“過去”がいかなものでも、そのすべてを守ると、私はそう誓った」
抱く腕に力を篭める。神を見つめるのとは違う感覚の中で、静かに脈打つ鼓動がひたすらに愛おしい。
だって決めたのだ。もう自分達の時間が重なることはない。腕の中のもう重なることのない拍動に、けれど、ひたむきに呼ばれたことは、嬉しかった。自分の存在そのものを呼んでくれた唯一の声が、喪われなかった。だから、その悦びを最後の枷に、悲哀と後悔の海にひたすら沈むのだと。
「この身の在り方については、自身で伝えようゆえに……。どうか、コレには何も明かさないでいただきたい」
「聞きとどけよう。その程度、実にかわいらしい“願い”ではないか」
声は憂愁と慈愛に濡れて、果て知らぬ空間に滲んで消える。その音を追いかけるようにして輪郭が滲む神をそっと視界の外に閉め出し、知盛はもう一度、腕の中の存在を確かめる。神の声は美しく、その気配は美しいけれど、自分はそれを求めたのではない。
「俺の罪など、お前は気に留めなくていい。赦さなくていい。だが、」
――どうか、許してくれ。
涙など一滴も流れなかった。ただ、押し殺そうにも押し込めようにも、どうしても溢れ出す哀しみを受けて、取り巻く世界の水気が震えているのを感じる。けれど、かそけき星明かりにさえ今の自分の姿を暴いてはほしくなくて。
腕と瞼とにきつく力を篭め、淡い安息香を吸い込みながら、知盛はもう辿りつけないだろう水底の気配を探すように、ひたすらに夜の底でうずくまっていた。
Fin.