蒼天の向こう
泣く背中を、見送っていた。
声もなく、涙など一滴も流さず、けれど確かに泣いている細い細い背中を。
声もなく、表情など微塵も動かさず、けれど確かに悔いている広い背中で。
あの男が後悔しているところなど、将臣は見たことがなかった。日々の生活の中で、細々と「ああ、しまった」という空気を滲ませるところには遭遇したことがあった。だがそんな程度のものは後悔には入らないだろう。本当の意味で。人生という大きな視野で見渡した意味で。
将臣は、あの男が後悔しているところなど、見たことがなかったのだ。
何事にも興味のなさそうな素振りをして、その実、不器用な内心を隠すのがひたすらにうまいだけの男だった。損な性分だと思った矢先に知ったのは、彼が大切に囲う安寧の存在。だから後悔をすることもないのかと、妙に納得したのを覚えている。
そんな貌をするぐらいなら、連れて行けよと、そう言った。正直なところ、彼が彼女を手放すと言った折には将臣は大反対したのだ。それがやさしさだとも知っているし、誰よりも先行きに不安を確信していればこそ、そうしたい思いは尊重したかった。けれど、彼女の正体を告げられ、その戦力を手放すことを憂えた。
誰にも内心を見せることを由としないくせに、あの日、紅蓮に染まる六波羅の邸宅を見るよりも何よりも、白馬に乗って夜闇に紛れていく背中を見る瞳こそが悲しみに染まっていた。そして、将臣のことをちらとも見ようとせずに、言い切ったのだ。自分達の道は、もう既に別たれていて、二度と交わることはないのだと。
亡骸を平泉の海に見送った。
惜しむには彼女のことを知らなさ過ぎ、悔やむには彼女との接点が少なすぎた。
ただ、知っていた。あの男が彼女の傍らにいる時の、あの幸せそうな日常を。
その愛ゆえにと紡がれ、結ばれてしまった哀しい結末を、ただ見届けることしかできなかっただけで。
知盛の最期の地になったという海域に舟を出してくれたのは、熊野別当だった。散らしていた烏と、源氏の一派として出陣していた水軍の男達の言葉を基に割り出したのだ。きっと、ぴたりと正確な地点であることだろう。
「――連れ行けって、こういう意味じゃなかったんだぜ」
御座舟に残ると言ったのは知盛だった。自分こそが適任だろうと、その言葉に反駁するだけの要素など、何もなかった。けれど、もう終わりだと、そう無言で語る背中が不愉快で、不安で。将臣は言質代わりに還内府として帰還を最優先するようにと命令を突きつけ、彼がずっと大切に身につけていた首もとの水晶を問答無用で『借り受けた』のだ。
彼女の亡骸を前にして泣き崩れた家長が言っていた。お前達は俺に従って最後までというのだな。ならば、俺が敗れた相手の言葉にも従えと。それが、彼らの主の最後の厳命だった。
鈍い水音をつれて、彼が愛用した、彼に終焉を齎した、彼女が最期まで振るった刀が沈む。それを追いかけるように、結局引き取りに来なかった紫水晶が、沈む。
「次こそ、一緒に生きられるといいな」
手向けたのは、二人の最期の言葉だった。
だから、将臣は祈る。悔いが残るのなら、きっとそれが最たるモノだろうから。
声もなく、表情など微塵も動かさず、けれど確かに終わりを知っている広い背中を。
声もなく、涙など一滴も流さず、けれど確かに終わりを覚悟している細い背中を。
不器用に泣いているひとりぼっちの背中を、だって将臣は、見ていたのだ。
Fin.