朔夜のうさぎは夢を見る

白妙の

 目覚めが常と異なっていたことについて、あれこれと言い訳をするつもりはない。つまり、自分は寝息が重なるほどの距離で与えられていたぬくもりが去ったことにも気づかぬまま、ぐっすり眠り込んでいたというだけのことだ。
 抱え込む腕の感触がないことと、触れるぬくもりがないこと。しかし一方で、夢と現のはざまでも確かに彼の存在をぼんやり感じていた。さて、では何をもってそう思い込んだのかと、胎児のようにくるりと丸めていた身をようやく起こしてみれば、ずり落ちたのは見覚えのある、しかし身に覚えのない白い衣。
「これは――」
 これは、主のものだ。見紛うはずがない。はこの狩衣を、今回の旅支度において確かに荷に包んだし、何より主が昨晩、厳島の祭神に舞を奉納するにあたって纏っていた。着付けの手伝いも命じられたし、舞台にて優美に、艶美に、けれど清廉に舞う姿には素直に見惚れていたのだ。この記憶が誤りである可能性は微塵もないと、そう断言できる。


 白は清純の色。穢れを知らぬ、無垢な眩さ。平家の嫡流として多くの恨みを買い、一介の将として敵味方の数多の死を負い、血にまみれたこの身には何とも皮肉なこと。言い放った横顔は凄艶で、潔かった。
 罪は罪だ。それは、誰にも覆しようなどない。だが、罪を罪と知り、自覚と自責を自嘲に紛れさせて記憶と共に抱えて進むなら、それは一種の清廉さではないのかとは思う。いや、思っていたいのだ。
 だって、綺麗事だけでは生きていけないのだということを、あまりにも強く思い知ってしまった。守るためには、時にあえて罪を犯さねばならないこともある。自身を、大切な人を、矜持を、意地を。守るべき対象やら守りたい対象やらその動機やらは様々だが、それがこの世界の根底を流れる絶対の原則なのだと思い知った。
 守りたいものが刃やら戦火やらにて脅かされるというのなら、こちらもまた刀と弓を手に立ち向かい、脅威の払拭のために敵を殲滅することが何よりも確実。両者の間に和解が成り立てば、それが一番だとも思う。だが、成り立たないものに対してないものねだりをし、罪を前にして躊躇するにははあまりにも守りたいものを愛しすぎた己を知っている。
 彼と共に在れる日々を、彼の愛した人々と共に在れるこの穏やかな時間を、どうか盤石たるものに。願いは深く、あるいは欲求とも本懐とも。そして、そんな欲深くわがままな己を貫くことも、またひとつの道であり覚悟であり誠意であるのだと知った。
 踏みしだいたなら、往くしかない。振り返ることはできず、引き返すことはできず、やり直すことなどできようはずもない。ならば貫き、その道をもって自己満足とはいえ、贖罪となすしかないのだ。断ち切った数多の道に、けれど未来は繋がっているのだと示すために。


 ふと巡ったとりとめのない、出口のない思索の螺旋を頭を振ることで断ち切り、は改めて己が主の不在を悟れなかったのかについて考える。もっとも、身じろぎをすればその正体はすぐに知れた。持ち上げたことで衣からふわりと燻る、あまりにも馴染みすぎた甘い香り。
 纏うにあたって香を焚き染めた衣にはその残り香が染み付く。そうでなくとも、香を焚けば肌に香りが馴染み、そこに衣を纏えばやはり香りが移る。重ねれば重ねるほど、強く、深く。
 どうやらかの存在が傍らにあると勘違いしたのは、衣に染み付いた香りのせいであったらしい。
「……中毒みたい」
 気づけばその存在を探し、その存在を思っている。
 彼を彷彿とさせる色に、音に、香りに。思わずその存在を連想し、思い込んでいる。


 上掛けにと供されていた狩衣に代わり、昨晩の寝入りばなに上掛けにしていたはずのの小袿が衣桁にかけられ、そして結び文が添えてある。褥から抜け出してそっと手にしてみれば、まだ露にほんのりと濡れ、瑞々しさが失われていない。
 朝の気配を纏うそれは、いずこで採ってきたのやら、罰あたりにも季節外れの榊の花。溜息を飲み込んではらりとほどけば、実に流麗な文字がさらりと躍る。

――白妙の 雲のはたてを 往く影を 仰ぎつ覚める 独り寝の宿

 恐らくはこの狩衣を揶揄した枕詞にしてあまりにも意味が広い謎かけ。いわく、寝ても覚めても独り寝であると。それはさて、彼の起床に気付きもせず眠り込んでいた己への皮肉なのか、彼に拾われてより初めて経験する、の不在による彼我の独り寝の日々をただ示しているだけなのか。
 もっとも、それだけを考えるには、世事や常識に疎い自覚のあるであっても、異性間で衣を交わすことの意味をどうしたって意識してしまう。そして、あの主が世事や常識の枠にはどうにも収まりきらないことも、そこまで考えてあれこれ悩む己を肴にして愉しむきらいがあることも、知っている。


 もやもやとわだかまる感情はどうしても煮え切らず、気分のいいものではなかったが、自覚も自己処理も追いつかないなら、中途半端なままでも飲み込むしかない。今は分からずとも、いつかわかる日が来るだろう。願わくばその瞬間に、この瞬間の無自覚への後悔に沈んでいないことを。
 願いは言葉に載せず、ただ胸にしまいこむ。言の葉は言霊。しかも、ここは霊験あらたかなる神域である。滅多なことを口にして、それが禍事を招いてはたまらない。慎重にならねばなるまい。罪を重ね、終わらぬ贖罪を背負おうとも彼の傍らに在れる日々を紡ぎたいのだと欲し、己を加護する神にまで宣したのだ。その道を、こんなところで不用意に断ち切るつもりはさらさらない。
 腕にかけたままだった狩衣をそっと抱きしめ、榊の花のほのかな香りと共に甘く妖艶な彼の残り香を吸い込みながらは呟く。
「ありがたく、拝借いたします」
 これはきっと、帰ることへの確信。ゆえ、返しにいこうと思う。そして、再び彼の傍近くに在るのだ。彼は菊花の混じった安息香に安眠を誘われるようだが、自分はそれに加えて伽羅やら何やら、彼の纏う香りが混じらねば違和があるようになってしまった。だから、あそここそが帰る場所。穏やかに、やわらかに。時間を重ね続けたいと願う場所が、もはや己の還る場所。
 そして永くあの人の安眠を守るために、今はこの別離を乗り越えるのだ。きっとこの先には、より盤石たる穏やかなまどろみが続くのだと信じて。

(あなたを思わせる衣への謎かけは)
(まるで、あなた自身を示してもいるような)

白妙の

Fin.

* 文中和歌は自作になります。文法の誤りなど、ありましたらご指摘願います。

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。