朔夜のうさぎは夢を見る

朱色の岸辺

 川辺をゆらと歩きながら、彼は何か、遠い物思いに耽っているようだった。
 視線はふらふらと宙を漂っているようで、目には見えない何かを確かに捉えて見据えている。それはいつものこと。こうして彼女が置き去りにされるのも、いつものこと。
 散策に出たいと言ったのは彼だ。「散策に出る」との断定ではなく、「散策に出たい」と。決定権はいつだって彼にある。彼女には拒否権の所持は認められていても行使の許可は与えられていない。
 いや、認められてはいる。ただ、後のことを保証されていないだけで。ゆえに彼女は拒否権の行使によって失うモノの可能性があまりに大きすぎるというその一因ゆえに、所持している権利の行使に思い至らない。思い至るには、与えられたすべてのものが、あまりにも愛しすぎた。


 出たいと言うなら出ればいい。従えと言うなら供をしよう。彼女には拒否権があり、行使の意思がないのだ。言われるままに身支度を整え、行き先も知らぬままに夕まぐれの川辺を歩く。供に歩き、けれど共には行けずに置き去りにされる。
 彼は何か遠い物思いに耽っており、ふらふらと視線は宙をさまようばかり。やわらな橙を刷かれた水面のきらめきも、飛び回る赤とんぼも、何ひとつとして彼の心を捉えはしない。美しくどこか切ない風景にしっとりと染まりながら、すべての彩りを従えるように、往く。
 世界は美しい。平穏な風景は、この上なく麗しい。胸を噛む感傷と感動を、分かち合う相手はいない。だって彼は、その世界を眺める人ではなくて、構成する人。彼女の視線の先で彼女の世界の中心に凛と立ち、振り返りもせずに見えぬ道を見据えて歩く。
 言葉の重みを良くも悪くも知る人だ。きっとそこには浅からぬ違いがあろう。だが、「行く」も「行きたい」も、彼女にとっては違いがない。いつもと違う確かな“いつも”が、ただ静かに夕闇に沈んでいく。
 ふ、と。彼の視線を捉えるものがあったらしい。小さく巡った頭の向かう先を追いかければ、そこにはこのいかにも平穏な風景にいっそ毒々しいまでの艶やかさを添える真っ赤な華が。


 彼は何を言おうともしなかったが、彼女は小さく「彼岸花ですね」と呟いた。必要の有無はともかく、会話のきっかけになりうるようわだかまる沈黙を小さく小さく切り裂いて歩くのも、いつものことだった。
 会話は彼の気まぐれによって続いたり続かなかったり。それもいつものことだ。決定権は彼にあり、彼女には拒否権がない。それがいつものこと。
「死人華、と。……俺は、そう聞いたが」
 足も視線も固定したままの、相槌とは少し違う、呟くような気まぐれな言葉。けれど結局、その場にそれ以上の声が降り積むことはなかった。
 気のない様子でまた元のように視線を宙にさまよわせて、彼は何ごともなかったように往く。だから彼女も行く。半歩後ろを、置き去りにされながら。



朱色の


(嗚呼、なんと残酷な距離だったのだろう)
(たとえそれに気づいても、それだけでは、あなたには決して届かない)

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。