さざれ石の孤独
日常というものは、いったいどこで何をどう欠いたところで続いていく。いや、続けねばならないものだと、重衡は考えている。
日常とは、永久不変の何か、ではない。絶えず揺らぎ、様相を変え続けるそれを、ある時点では非日常と呼び、ある時点では幸福と、不幸と呼びならわす。けれど、おしなべてすべては日常に帰結する。なぜなら、日常とはそれらすべての積み重ねであり、積み重なってしまいさえすれば、いかな非日常でさえ、日常の中に埋没してしまうのだから。
しかし、こうして過ごす日々はやはり非日常なのだろうと、重衡は思いなおす。
積み重ねには至らない、ほんのいくらかの非日常。
そう、この日々は非日常であってもらわねばならない。今は熊野へと旅立ってしまった兄と、義兄とは必ずや戻ってくる。そうすることで、この非日常は日常の中に異彩を放ちながら埋没する。決して、日常になど至ってもらっては困るのだ。
いまや平家の実権を表裏で担う総領である還内府と新中納言が福原を空けるに際し、重衡に申しつけられたのは、この地の守護と、彼らが戻るまでの代理だった。各地のいまだ源氏に降っていない勢力との繋ぎやら、兵糧の確保やらは伯父を中心とした老練の手助けが存分に見込める。だが、いざこの福原に攻め入る勢力があった場合、前線に立つのは彼らではない。重衡や教経、経正といった若手の面々なのだ。
かわるがわる寄せられる各地の政情やら動向やらに目を配り、兵達の気が緩まぬようほどほどに調練を組む。兄も義兄も、連れはほとんど伴っていない。残された彼ら郎党連中は自発的に調練に取り組んでいるが、それらの監督もまた、重衡にとって重要な仕事である。彼らを下手に挑発せぬよう、しかし侮られぬよう、絶妙な距離感を保って対峙するのは、存外、心のすり減る重労働であった。
振り返れば、そこにいてくれる。困ったことがあれば相談に行けるし、自分では目が届かない領域まで見据え、誰よりも鮮やかに光を齎してくれる存在を欠いたまま過ごす日々は、重い。戦に赴いた相手を待つのとは、また違う重さに重衡は日々を悶々と過ごす。
その身の安全を案じ、無事の帰還を願い。そうして戻ってきてくれた彼らに、留守を託したことを失望されないようにとがむしゃらに過ごす。彼らはこの孤独を日常として過ごしているのかと、悲しみに溺れながら。
「能登守様がお見えでございます」
書簡に落としていたはずの視線を跳ね上げ、かけられた声に重衡は一呼吸を置いてから「お通ししてくれ」と、極力穏やかな声を紡ぎ上げた。文字を追っていたはずなのに、頭には何も残っていない。どうやら、いくばくかの時間を無為にしてしまったようだ。
促す声に応えて柱の向こうから姿を現したのは、一人の青年。声をかけてくれた女房は、柱の陰から深く頭を下げて早々に引き下がる。きっと、教経がなにごとか言い含めてくれたのだろう。
「何か、ありましたか?」
後からもう一度読もうと心に決めた書簡を畳み、向き合っていた文机にきちんと揃えてから重衡は膝を使って向きなおる。昨夜の内に先触れは受けていたため、客人用の円座は既に用意済みだ。そちらに座してくれるよう勧めたが、しかし教経は小さく首を横に振る。
「釣殿にお邪魔したく思います。お許しいただけますか?」
「釣殿、ですか?」
重衡の知る限り、教経は武芸を好む青年であるが、だからといって武骨者というわけではない。平家の公達として全く恥ずかしくない、礼節を重んじる好青年である。年が近いことで親しく交友を重ねているが、年上である重衡に対して礼を失したことはない。そんな青年の申し出は、実に意外。だが、どこか神妙な表情で重衡の返答を待つ様子に他意はうかがえず、なれば断る理由もない。
「ええ、わかりました。では、参りましょうか」
きっと、先ほど女房に言い含めていたのはこのことだったのだろうと当たりをつけ、特に何を用立てるわけでもなく釣殿に赴いてみれば、予想通りの円座の準備と、それから高杯が用立ててある。
「能登国より、暑気払いにといくらか酒が届きました。知盛殿や還内府殿のお帰りを待っていては、きっと悪くなってしまいますので」
何ごとかと思って振り返った重衡に悪戯げに笑い、教経は足を止めてしまった重衡をするりと追い越して釣殿へと踏み入る。
「少し、息抜きをいたしませんか」
にこりと笑った表情は、けれど、常と違ってどこか寂しげに見えた。
日が傾きつつある赤みを帯びた空を背景に、二人は静かに杯を交わす。ぽつりぽつりと語らうのは、二人が互いに担う責務のこと。目前の仕事を通じて、けれど二人は今ここにいない別の人間を恋しんでいることを、自覚している。
「まったく、これではいけませんね」
いま、互いが抱えている仕事についてを一通り語り終わったところで、意を決して重衡はことさら明るい声を張った。
「もしここに兄上がいらしたら、きっとこうおっしゃいます」
突然の様子の変化に、虚を突かれたのだろう。ぱちぱちと瞬く教経の双眸が自分に注がれているのを確認してから、重衡はおもむろに眉間に皺を寄せる。
「――辛気臭い貌をするな。せっかくの酒が、まずくなる」
声真似は得意中の得意。しかも、宵闇が迫る今の刻限なら、きっと表情もある程度似せることができていただろう。唖然とした表情で重衡を見つめていた教経が、小さく噴出して視線を横に逸らして必死に肩の震えを堪えているのがわかる。
「いかがでしょう? これでも、兄上の真似は得意なのですよ」
敵将でさえ、欺いたことがありますからね。そうにこやかに振り返るのは、去る年の冬のこと。あの日の水上戦を共にした教経が、そしてそのことを見誤るはずもない。
「存じ上げているつもりでしたが、なるほど。これでは、数多の女房殿がお二人を見紛うわけです」
「夢は夢のまま、美しくあるべきでしょう?」
「そして夢は夢だからこそ、醒めてしまえば残らない、と」
「夢と知りせば、と、申しますからね」
ひとしきり言葉遊びを楽しんで、二人は顔を見合わせる。もう、互いの表情にいびつな気配は残っていない。
改めて注がれた酒をゆったりと楽しみながら、重衡は光を失っていく空をふと見上げた教経につられて視線を巡らせた。
「雨の匂いが、いたします」
遠からず、きっと夕立がやってくるだろう。熱気の篭もった空気を洗い流す雨は、ありがたい。
「雨の匂いをかぐと、胡蝶殿を思い出します」
そんな物思いに耽っていた重衡を思いがけない動揺へと突き落としたのは、教経の抑揚を欠いた声だった。
「夕刻の弓道場でこの匂いをかぐと、どうしようもなく心がざわめきます。なぜ、失われなければならなかったのかと。なぜ、この気配だけは、何も変わらずに在るのかと」
それは、くしくも重衡が、熊野へと旅立つ前の義兄へと言い聞かせたのと同じ内容を嘆く言葉。教経が、具体的に何を示してかくも嘆いているのかはわからない。重衡は、教経が失ったものも、雨の匂いによって思い出しているものも、知りはしない。ただ、わかる。教経も、喪われてしまった日常を忘れたくなくて、認めたくなくて、取り戻せることをただひたすらに信じて駆け抜けることしかできない哀絶に、臍を噛んでいる。義兄や、自分や、きっと恐らくは、兄と同じように。
「俺達は一体、どこで、何を間違ってしまったのでしょう」
さあさあと微かな音をたてて降り始めた雨は、予想通り、熱く篭もった空気をあっという間に清涼感のあるそれへと塗り替えていった。声を限りに鳴いていた蝉も口を噤み、世界は静寂に包まれる。
「……申し訳ありません、唐突に。詮無いことを、申しました」
返す言葉も思いつけず、ただじっと空を見つめ続けることしかできずにいた重衡は、囁くように紡がれた声に、ようやく視線を巡らせる。一門でも随一の弓使いであり、その勇猛果敢な性格で知られる青年が、しょんぼりと肩を落としてうなだれている姿が視界に映る。
「雨が降っていては、邸に戻られるのも億劫でございましょう」
しばし考えて、重衡は特に取り繕うことなく言葉を編みあげた。もう少し悲嘆に沈んだ口調になるかと予想していたのだが、思いのほか声音はやわらかい。はっと弾かれたように振り返ってきた教経に、そして重衡は幾日か前の義兄との問答においては最後まで見せなかった、情けなく眉尻の下がった表情を返す。
「今宵は共に、少し、息抜きをいたしませんか」
明日からまた、前を向くために。それぞれの意地を守り抜くために。
きっと、取り戻すべき日常の一端を手に帰ってきてくれるだろう彼らの同志を、彼らが必死に守り続けている日常の中で、一片の齟齬もなく出迎えるために。
さざれ石の孤独
(ひとりぼっちでは寂しくてしょうがないから)
(わたし達はきっと、寄り添いあって、互いを不可欠の存在とするのだ)
Fin.